春(三月下旬・桜の舞う境内と、新たな良縁を結ぶ一歩)
第1章:大都会のエアポケットと、ふたりの距離
六本木の巨大な高層ビル群がガラスの壁に春の強い陽光を反射させ、赤坂のきらびやかな歓楽街が夜の喧騒に向けて静かに息を潜めている。最先端の流行と膨大な経済が凄まじい速度で流動するその大都会のど真ん中に、まるで時間のエアポケットのように取り残された、深い緑の杜があった。
三月下旬の赤坂氷川神社。一歩その大鳥居をくぐった瞬間、それまで耳を刺していた車の走行音や都会のざわめきが、嘘のようにピタリと掻き消えた。参道に一歩足を踏み入れると、肌を包み込むのは、ひんやりとした、けれどどこか温かみのある総檜(そうひ)の香りと、静謐な江戸の空気だ。
緩やかな坂道を上る参道には、満開を迎えたソメイヨシノが何本も枝を伸ばし、柔らかな春の風が吹くたびに、はらはらと淡いピンクの花びらを躍らせていた。
「ふあぁ……! 先輩、六本木駅のすぐ近くなのに、鳥居をくぐった瞬間、急に深い森に入ったみたいに静かですね! 桜の花びらが風に舞って、すごく幻想的です……!」
チーコはキャメル色の薄手ニットの裾を揺らしながら、首から下げたフルサイズミラーレスカメラを両手で愛おしそうに包み込み、のんびりとした、けれど周囲を一瞬で明るくするような笑顔を咲かせた。
「そうだな。この社殿は八代将軍の徳川吉宗公が建てた当時のまま、関東大震災も東京大空襲も奇跡的に免れて現存してる重要文化財だ。チーコ、歴史の重みに見惚れて足元の段差で躓くなよ。お前、浅草の時もそうやって浮かれて機材バッグをぶつけそうになってただろ」
前を歩く蒼井が、愛用のジンバルに固定されたシネマカメラのモニターに視線を落としたまま、少し低い、けれど張り詰めた声で振り返った。
三十歳手前の蒼井は、優しい中にも仕事に対する妥協のない厳しさを持った映像クリエイターだ。数々の厳しい現場を生き抜いてきたプロだからこそ、その言葉には確かな重量感がある。しかし、その体は無意識のうちに、チーコの歩行ルートを先導し、彼女の安全を確保するための明確な盾になっていた。
「大丈夫です! 今日はちゃんと足元見てますから……あ、でも、やっぱりレンズを三本入れてるから、ちょっとだけ機材バッグが重いかも……」
「ほら、貸せ。お前はカメラのホールドと、光を捕まえることだけに集中しろ」
蒼井は歩みを止めることなく、ごく自然な動作でチーコの重いショルダーバッグを引き取り、自分の左肩にかけた。すでに自分の大きなシネマカメラ用のバッグを背負っているというのに、その動作には一切の迷いがない。
「あ……先輩。浅草の時から薄々思ってましたけど、やっぱり最近、ちょっと優しすぎませんか? 前は『自分の機材くらい自分で管理しろ』って怒ってたのに」
「……気のせいだ。お前が変なところで体力を消耗して、シャッターを切る手がブレたら、俺の映像のクオリティに関わる。ほら、手水舎で清めたら、あの樹齢四百年の大イチョウ越しに見上げる社殿のカットからいくぞ」
照れ隠しに前を向いて歩き出す蒼井の後ろ姿を、チーコは少しだけ胸をきゅっとさせながら見つめた。
大学時代の先輩後輩という関係から、このチームで一緒に働くようになって一年近く。浅草寺での「おみくじの約束」を経て、ビジネスパートナーという便利な言い訳のすぐ裏側にあるお互いの体温は、この春の陽気のように、もう隠しきれないほどに温かくなっていた。



第2章:総檜の社殿と、天才の「ゾーン」
二人は並んで本堂前の手水舎へと進む。チーコは慣れた手つきで柄杓を取り、冷たい水を右手に、そして左手へと受けた。大都会の真ん中にあるとは思えないほど清冽な水が、彼女の白い指先を濡らしていく。
「冷たっ……! でも、水に触れて洗われていると、なんだか心の中の細かい雑音が全部消えていく気がしますね」
「吉宗公の享保の改革の時代から、ここは一度も焼けずに残ってるんだからな。歴史の純度が違うんだよ。よし、撮影準備にかかるぞ」
すぅ、と息を吸い込んだ直後、チーコのまとう空気が劇的に一変した。
衣服が擦れる音すら置き去りにするような、圧倒的な集中力――「ゾーン」への突入だ。
カシャ、カシャ、カシャ……!
普段の放っておけないおてんばな女の子の面影はそこにはない。ファインダーを覗き込む彼女の瞳は、凛とした本物のプロカメラマンの輝きを放っていた。
東京大空襲の猛火を浴びて幹の一部が炭化しながらも、瑞々しい若葉を芽吹かせようとしている樹齢四百年の大イチョウ。その圧倒的な生命力の向こうに、金箔などの過度な装飾を排し、最高級の総檜造りという職人のプライドだけで建てられた格調高い社殿が佇む。チーコの指先は、皮膚感覚の一部になったかのように滑らかにダイヤルを回し、完璧な「春の静寂」を切り取っていく。
蒼井は、その瞬間がたまらなく好きだった。妥協を許さないクリエイターである自分だからこそ、彼女がカメラを通して見せる、爆発的で純粋な表現力にいつも激しく心を動かされる。
蒼井はジンバルを滑らかに滑らせ、桜の絨毯を踏みしめるチーコの真剣な横顔と、その背後にそびえ立つ近代的な六本木のビル群を、新旧が美しく交錯するワンカットの映像としてモニターに収めていった。
「ふぅ……! 先輩、見てください。都会の喧騒を完全に忘れさせる、本当に美しい絵が撮れました! ……あ、先輩、ここの授与所にあるお守り、二つの実が一つに結ばれた『さくらんぼ守り』なんですって。すごく可愛い……」
撮影を終え、いつもの無邪気な笑顔に戻ったチーコが、液晶画面を覗かせてくる。
「良縁の神様だからな。男女の縁だけじゃなく、仕事の最高のパートナー、人生の素晴らしい友人との出会いも全部、大己貴命(おおなむちのみこと)が結んでくれるんだ。……チーコ、俺とお前が出会って、こうしてチームで新しい表現を紡げているのも、一種の強いご縁だと思わないか?」
「え……っ? セ、先輩……それって仕事のご縁、ですか?」
「それだけだったら、わざわざ手袋をしないお前の指先を温めたり、バッグを持ったりしないよ。お前のファインダーの隣は、俺だけの特等席だって浅草でも言っただろ。……ほら、次は勝海舟ゆかりの稲荷神社に行くぞ」
「――っ! 先輩、待ってください! 今の言葉、私の心臓にプロ並みの衝撃が走ったんですけど……!」
真っ直ぐに自分を見つめる蒼井の瞳から目を逸らせず、チーコの耳たぶは、舞い散る桜の花びらよりも鮮やかな赤に染まっていた。



第3章:四合稲荷のノートと、大人の覚悟
本殿の少し奥、うっそうとした緑の木々に守られるようにして佇む境内摂社「四合(しあわせ)稲荷神社」の前では、ヤヨイと佐久間が並んで取材ノートを広げていた。
「佐久間君、本当にお疲れ様。赤坂駅からの徒歩ルートも、この後の港区コミュニティバス『ちぃばす』の運行ダイヤの確認も完璧ね。あなたが完璧な下調べをしてくれるおかげで、私は混雑や移動に気を取られず、この神社の情緒にしっかり集中した言葉が書けるの。さすが、私の頼れるパートナー」
柔らかいベージュのトレンチコートの襟元を少し整えながら、ヤヨイが丸眼鏡の位置を細い指先で直した。長い黒髪をハーフアップにした彼女の横顔は、大人の女性としての洗練された美しさを漂わせているが、仕事モードの活発なエネルギーも放っている。
「いえ、ヤヨイさん。僕の歴史ノートなんて、ヤヨイさんの美しい文章の土台に過ぎません。ヤヨイさんの紡ぐ文章がなければ、このデータはただの数字と文字の羅列ですから」
二十六歳の佐久間学は、黒髪短髪の落ち着いた佇まいで、いつものカーキ色のジャケットの襟を少し立て、ヤヨイの丸眼鏡越しに見つめる瞳を真っ直ぐに射抜いた。寡黙で真面目、移動ルートやトラブルへの備えを完璧にこなす縁の下の力持ちだが、彼のリスペクトは常にヤヨイの言葉に向けられている。
「それよりヤヨイさん、こちらの四合稲荷の由来をノートにまとめておきました。明治時代に周辺の4つの古稲荷が合祀された際、近隣に住んでいた勝海舟が『四つの志、幸せが合わさる、なんと縁起の良い名だ』と絶賛して命名したという逸話が残っています。僕たちのチームも、ちょうど四人ですし、SNSのコラムに絡めると読者の方の胸に響くと思います」
「四つの幸せ……なんだか、本当に素敵な響きね。私たちのチームを天の神様が祝福してくれているみたい」
ヤヨイが優しく微笑み、差し出されたノートの端を指先で触れた。その拍子に、二人の手が桜の影の中でそっと重なる。
「はい。でも、僕のパーソナルな願いを言うなら、その四つの幸せのすべてが、ヤヨイさんと僕の『二人で紡ぐ未来』に繋がっていてほしいです。仕事の後輩のフリをする言い訳の嘘は、浅草で終わりにしましたから。僕は一人の男として、ヤヨイさんを生涯かけて支えたいと思っています」
「……っ、もう! 佐久間君はいつも不意打ちで直球なんだから」
ヤヨイは驚きに丸眼鏡の奥の瞳を潤ませ、それから、長い黒髪を耳にかけながら、愛おしさを隠すようにして優しく微笑んだ。いつもはお姉さんらしくリードしているつもりなのに、彼の真っ直ぐで一切の濁りのない真実の言葉が、胸の奥の境界線を簡単に溶かしていってしまう。
「私の心の校正機能、あなたといると本当に働かなくなっちゃうわ。でも……嬉しかった。私のこれからのノートの余白、あなただけの名前でいっぱいにしてもいいかしら、佐久間君」
「望むところです、ヤヨイさん」
お互いを生涯のパートナーとして、一人の異性として強く意識し始めた二人の温かい熱が、都会のオアシスの境内に、じんわりと、けれど決定的に満ちていくようだった。


第4章:新人たちの足跡と、都会のオアシスの余韻
夕方の五時前。社殿に明かりが灯り始める頃、新人ADの近藤とまゆみが、境内の江戸型狛犬の前で熱心にスマホの画面とノートを交互に見つめていた。
「近藤君! 『大都会の喧騒のど真ん中に残る、江戸の奇跡。赤坂氷川神社の春は、四つの幸せが結ばれる場所。チームケロは新しいご縁を胸に、また次の一歩を踏み出す』……よし、Instagramのストーリー用のキャッチコピー、これでヤヨイ先輩に見てもらおう!」
「いいねまゆみさん、すごく引き締まった文章だよ! それにしてもさ、今日のチーコ先輩がさくらんぼ守りを見つめてる時の蒼井先輩のあの優しい目……もうビジネスパートナーの枠を完全に超えてたよね。佐久間さんとヤヨイさんも、四合稲荷の影で手を重ねてたし……僕たちが入る隙なんて1ミリもなかったよ」
「ふふ、本当だね。でも、先輩たちが仕事にもお互いにもあんなに真摯に向き合っているのを見ると、私たちももっと頑張らなきゃって思うよね。この春の最高の余韻をSNSで発信して、記事を大成功させよう!」
二人の若いADのノートには、詳細なアクセスデータとともに、チームの一員としての成長と、いつか自分たちもその中心で物語を紡ぐんだという初々しい決意が、力強く書き込まれていた。
第5章:美しい余韻を抱いて、次の聖地へ
「よし、今日のロケはこれで全て終了だ。機材をまとめて撤収するぞ」
夕暮れ時、赤坂氷川神社の境内には、深く美しい紫色の夕闇が広がりつつあった。ライトアップされた総檜の社殿が夜の闇に浮かび上がり、境内には、やりきったチーム全体の「美しい余韻」が満ちていた。
一歩ずつ歩みを進めるごとに、都会の森の静寂が遠ざかり、大鳥居をくぐって六本木の駅へと向かう四人の影が、アスファルトの上に長く、静かに伸びていく。
「なんだか、境内を離れるのがすごく寂しいです。吉宗公や勝海舟のぬくもりが、まだ自分のカメラの中に残っているみたいで……」
チーコはカメラバッグのストラップを握りしめながら、少し寂しげに、けれど愛おしそうに振り返って都会の杜を見上げた。
「そうだな。でも、俺たちの物語はここで終わりじゃない。ほら、近藤、もう次の取材先のデータが飛んできただろ」
蒼井が声をかけると、近藤がスマホの画面を掲げて満面の笑みを浮かべた。
「はい! 次は……港区の『愛宕神社』です! 23区内で一番高い天然の山の山頂にあって、あの有名な『出世の石段』を登る、仕事運と勝運の最強の聖地です!」
「出世の石段……! すごく急な階段だって聞いたことがあるわ。佐久間君、ルートの確認は?」
ヤヨイが丸眼鏡を直しながら尋ねると、佐久間がノートをめくって静かに微笑んだ。
「はい、ヤヨイさん。神谷町駅からの最短アプローチ、および出世の石段を登った後の美味しいお茶処のデータまで、すべて完璧にまとめてあります」
「さすが佐久間君! 頼りにしてるわ」
「よし、チームケロ、赤坂の良縁を胸に、次は愛宕の男気あふれる石段へ向かうぞ! チーコ、次の現場でも最高の瞬間を切り取れよ」
「はい! 先輩の隣なら、どんなに急な石段でも、どこまででも登ってみせます!」
振り返れば、大都会のビルの合間にひっそりと佇む赤坂氷川神社の杜が、まるで「次の場所でも、良い物語を」と彼らの背中を優しく見送ってくれているようだった。 赤坂の地で新しい良縁を結んだ四つの視線は、それぞれの胸に消えない真実のぬくもりを抱いたまま、次なる東京の聖地、愛宕神社へと、ほのぼのとしたうきうきした足取りで向かっていくのだった。