第一章:春(4月初頭・合格御礼参りの群像劇)
蒼井のファインダー、チーコの光(午前10:00)
東京の四月初頭は、冬の名残を完全に拭い去った、どこか甘く瑞々しい空気に満ちている。本郷から湯島へと続く道すがら、新生活の始まりを象徴するような、まだシワのないリクルートスーツに身を包んだ若者や、新しい制服に袖を通したばかりの学生たちの姿が目立っていた。
晴れ渡った空からは、柔らかな陽光が惜しみなく降り注ぎ、坂道を上る人々の背中を優しく後押ししている。
「チーコ、歩きながら上を見上げるな。機材バッグが電柱にぶつかるぞ」
前を歩いていた蒼井が、愛用のジンバルに固定されたシネマカメラのモニターを確認しながら、少し低い声で振り返った。
三十歳を目前に控えた蒼井は、優しい中にも仕事に対する妥協のない厳しさを持った映像クリエイターだ。数々の現場で仕事の厳しさを知ってきたからこそ、彼の言葉には常に確かな説得力と、後輩を育てるための温かい眼差しが宿っている。
「だって先輩、見てください! 空が本当に真っ青で、雲一つないんですよ。今日ここで撮影できるなんて、それだけでウキウキしてきちゃいませんか?」
チーコは首から下げた愛機――角の塗装が少し剥げかけたフルサイズミラーレスカメラを両手で愛おしそうに包み込みながら、のんびりとした、けれど太陽のように明るい笑顔を浮かべた。
大学時代の先輩後輩という関係から、蒼井の熱心な誘いによってこの世界に飛び込んだチーコ。普段はどこか抜けていて、放っておけば反対方向の電車に乗ってしまうような危なっかしさがあるが、彼女の持つ「光を捉える天才的な感性」を、蒼井は誰よりも評価し、そして大切にしていた。
「仕事だぞ、チーコ。浮かれるな。今回はいつもの『合格祈願』のロケとは違う。新学期が始まる前に、無事にサクラサクの願いを叶えた人たちの『合格御礼参り』がテーマだ。絵作りのトーンも、冬の張り詰めた空気から、感謝と解放感に満ちた温かいトーンに切り替えなきゃいけない。お前、ちゃんと頭の切り替えはできてるんだろうな?」
「もちろんです! 冬のあの『絶対に合格するぞ』っていう熱い境内も素敵でしたけど、今日のこの、みんながホッとして笑顔を咲かせている空気、私のカメラで絶対に最高の形にして残してみせます!」
チーコは小さな拳を握り、うきうきとした足取りで切通坂を上っていく。二人はビジネスパートナーとして、何十回もこうしたロケを共にしてきた。互いを深く信頼し、慕い、慕われる関係。けれど、最近の二人の間には、仕事の会話のすぐ裏側に、名前のつかない特別な体温がほんのりと漂い始めているのを、お互いに薄々感じていた。
坂を上りきると、湯島天満宮の象徴である表鳥居(銅鳥居)が、威風堂々とした姿で二人を迎えた。寛文七年に鋳造されたという歴史の重みを感じさせる渋い青緑色の鳥居の向こうには、すでに多くの参拝客が行き交っている。
「うわぁ……本当にすごい人ですね、先輩」
チーコが息を呑んだ。境内に溢れているのは、無事に受験を終えたであろう若者たち、長年彼らを支え続けた家族連れの姿だ。誰もが晴れやかな表情を浮かべ、境内を包む空気そのものが明るいエネルギーに満ちている。
「4月の初めだからな。みんな、神様へ『ありがとうございました』って報告に来てるんだ。ほら、チーコ、参拝客の流れを邪魔しないようにカメラのポジションを意識しろ。まずは手水舎へ行くぞ」
「はい!」
二人は並んで手水舎の前へと進む。チーコは慣れた手つきで柄杓を取り、冷たい水を右手に、 shadow を落とす左手へと受けた。
「冷たっ……! でも先輩、冬のあの凍りつくような冷たさと違って、春の水はどこか優しくて、洗われていると心がシャキッとしますね」
「そうだな。季節は確実に変わってる。ほら、水滴をちゃんと拭いてから本殿に向かうぞ」
蒼井はそう言いながら、シネマカメラの録画ボタンをそっと押した。モニターの中に映し出されるのは、水滴を弾いて春の光に透き通るようなチーコの白い指先と、水を浴びて生き生きと輝く彼女の瞳。
アドバイザーとしての冷静な視線の裏で、蒼井の胸の奥がチクリと疼いた。普段はあんなに放っておけない女の子なのに、こうしてファインダーの近くにいる彼女は、時折、息を呑むほど瑞々しく、一人の大人の女性としての魅力を放ち始める。蒼井は小さく首を振り、自分の動揺を振り払うようにして、本殿へと歩みを進めた。
平成七年に総檜造りで造営された壮麗な社殿は、四月の強い青空の下で、神々しいほどに白く輝いていた。二人は拝殿の前に立ち、お賽銭を入れ、並んで二礼二拍手一礼を捧げる。
チーコは目を閉じ、長く、静かに手を合わせていた。去年の冬、ここで必死に祈っていた受験生たちの姿を思い出しながら、今、目の前にあるたくさんの笑顔への感謝を神様に伝えているのだろう。
お参りを終え、拝殿から一歩下がったその瞬間――チーコの空気が、劇的に一変した。
カシャ、カシャ、カシャ……。
衣服が擦れる音さえ置き去りにするような、圧倒的な集中力。ファインダーを覗き込んだ彼女の瞳からは、先ほどまでののんびりとした、明るくおてンプな面影は完全に消え去っていた。
被写体が持つ幸せの絶頂、歴史、そして未来への希望を、その一枚の四角い世界に凝縮しようとする、本物のプロカメラマンの顔。
「合格御礼」と新しく書かれた絵馬が何重にも重なり合う立体感、制服姿の友人同士が笑い合う瞬間の自然な表情、社殿の檜の木目に差し込む春の柔らかな斜光。チーコの指先は、まるで感覚が身体の一部になったかのように滑らかにダイヤルを回し、完璧な光のデザインを切り取っていく。
蒼井は、その瞬間がたまらなく好きだった。映像クリエイターとして仕事の厳しさを知り、妥協を許さない自分だからこそ、彼女がカメラを通じて見せる、純粋で爆発的な天才肌の集中力に、いつも激しく心を揺さぶられる。
(やっぱり、こいつの撮る時の顔、めちゃくちゃいいな……)
蒼井はジンバルを巧みに操り、シャッターを切り続けるチーコの真剣な横顔と、その背景に広がる春爛漫の境内の賑わいを、流れるようなワンカットの映像で捉えていく。
クリエイターとしての純粋な尊敬。指示を与える先輩の顔の裏にある、名前をつけたら引き返せなくなるような愛おしさ。二人の恋心は、春の光に溶かされるように、静かに、けれど確実にそのグラデーションを深めていた。
「……ふぅ! 先輩、見てください! 最高の春の光が撮れました!」
撮影を終え、いつものほわんとした、明るいチーコの笑顔に戻った彼女が、嬉しそうにカメラの液晶を見せてくる。そこには、ただ美しいだけでなく、参拝客の「ありがとう」という温かい感情がそのまま写り込んだような、優しい写真が並んでいた。
「ああ、素晴らしいな、チーコ。お前の写真には、見た人を幸せにする力がある。本当に、よくやった」
「えへへ……先輩にそんなふうに真っ直ぐ褒められると、なんだか魔法にかかっちゃったみたいで、うきうきが止まらなくなります」
チーコが上目遣いで蒼井を見つめる。至近距離で重なる視線。周りの賑やかな声が、一瞬だけ遠くの幻のように消え去り、二人の間に甘酸っぱくも、どこか切ない沈黙が流れた。
「よ、 よし。本殿のカットは十分に押さえたな。次は境内の裏手にある摂末社を回るぞ。戸隠神社と笹塚稲荷さんへ向かおう」
蒼井は照れ隠しに少し声を張り上げると、早足で歩き出した。チーコも「あ、待ってください先輩!」と、重い機材バッグを揺らしながらその後ろ姿を追いかける。
本殿の賑やかさから少し離れた木陰のエリアに入ると、そこには新緑の鮮やかな芽吹きが始まっていた。戸隠神社の厳かな佇まい、開運の神様を祀る厳粛な空気。春の柔らかな光の粒子が、木々の隙間からサラサラと降り注ぎ、地面に美しい木漏れ日の模様を描き出している。
「お稲荷さんの赤と、学生さんたちの紺色の制服、それに新緑の黄緑色が重なって、すごく瑞々しい絵になりますね!」
チーコは再びカメラを構え、夢中でファインダーを覗きながら、より良いアングルを探して一歩、また一歩と後ろへ下がっていく。しかし、彼女の視線はファインダーの中に集中しすぎ、背後にある摂社へ続く石段の段差に気づいていなかった。
「あ、この角度からなら、光が――」
チーコの足が、石段の角にかかる。ぐらりと、彼女の身体が大きくバランスを崩した。
「危ない、チーコ!」
蒼井はカメラを持ったまま、咄嗟に身体を投げ出すようにしてチーコの腕を掴み、その細い肩を自分の胸元へと強く引き寄せた。
ドサリ、と微かな音がして、二人の身体は戸隠神社の厳かな木陰の軒下で、隙間なく重なり合った。
間一髪、機材も身体も無事だった。しかし、二人の距離は、今までのロケのどれよりも近かった。
「……っ」
チーコの小さな肩のぬくもり、少し上がった息遣い、そして彼女の長い髪から漂う、春の雨上がりのような甘いシャンプーの香りが、ダイレクトに蒼井の胸に伝わってくる。
見上げれば、チーコの大きな瞳が、驚きと動揺で激しく揺れていた。その瞳の奥には、春の青空と、今までに見たことがないほど必死な自分の顔が映り込んでいる。
春の温かさとは明らかに違う、お互いの心臓が刻む、速くて熱い鼓動。恋人ではないはずの二人の間に、張り詰めた緊張感ともどかしいほどの愛おしさが最高潮に達する。
「す、すみません、先輩……。またやっちゃいました……」
チーコの顔が、見る見るうちに耳の裏まで真っ赤に染まっていった。
「……気をつけろって、いつも言ってるだろ。怪我したら、撮影どころじゃないんだからな」
蒼井は心臓の爆音を必死に抑え込みながら、掴んでいた彼女の手首をゆっくりと、名残惜しさを隠すようにして離した。二人は起き上がり、互いに服についた埃を払いながら、午前中のロケの片付けへと入った。その指先はまだ、かすかに震えていた。
佐久間のノート、ヤヨイの丸眼鏡(午後14:00)
同じ日の午後二時。午前中のまばゆい太陽は少し西に傾き、湯島天満宮の境内には、どこか落ち着いた、しかし依然として華やかな熱気が漂っていた。参拝客の波は途切れることなく、お礼参りの家族連れが、撫で牛の周りで記念写真を撮り合っている。
「佐久間君、移動ルートの確認はバッチリ? 次のポイントの光の向き、そろそろ変わりそうだけど」
柔らかいベージュ系のロングコートを揺らしながら、ヤヨイが丸眼鏡の位置を細い指先で直した。長い黒髪が、春の風にさらりと流れる。彼女はチームケロのSNS運営兼、記事の校正を担当する二十八歳だ。参拝者の目線に寄り添った優しくも丁寧な文章を書くのが得意で、読者、特に女性からの信頼が厚い、しっかり者のお姉さんである。
「はい、ヤヨイさん。本郷三丁目駅からのルートも含めて、コミュニティバスの遅延情報もチェック済みです。それと……今回の湯島天満宮の由緒、ノートにまとめておきました」
二十六歳の佐久間学は、落ち着いた黒髪の短髪に、いつものお気に入りであるカーキ色のジャケットを羽織っていた。小さなショルダーバッグから取り出したのは、びっしりと文字が書き込まれた取材ノートだ。 彼は歴史調査担当でありながら、自分でもカメラを操る真面目な青年だった。映像クリエイターである蒼井の、優しくも妥協のない作品作りに心から憧れ、このチームに参加した経緯がある。機材の管理から移動ルートの選定、参拝先の徹底的な下調べまでを完璧にこなす、チームにとってなくてはならない「縁の下の力持ち」だった。
「さすが佐久間君、本当に真面目で助かっちゃう」
ヤヨイがクスッと悪戯っぽく笑い、佐久間の顔を覗き込む。
「雄略天皇の時代に創建されて、正平十年に菅原道真公を勧請したのよね。……ねえ、この『奇縁氷人石』のカット、SNS用にスマホでも撮っておいてくれる? 迷子探しの道標だったっていうエピソード、現代のSNSの繋がりと重ね合わせて記事にしたら、きっと読者さんの心に響くと思うの」
「わかりました。……あ、ヤヨイさん、丸眼鏡に少し埃がついてます」
「え? 嘘、どこ?」
「あ、動かないでください、僕が取ります」
佐久間はごく自然に、けれど真面目な顔で一歩歩み寄ると、ヤヨイの綺麗な顔のすぐ近くに手を伸ばした。カーキ色のジャケットから、微かに香るシダーウッドのような落ち着いた匂い。いつもは「しっかり者のお姉さん」として佐久間を引っ張っているヤヨイだったが、彼の大きな手が目の前に迫った瞬間、ドクン、と心臓が跳ね上がった。
「……あ、ありがと。佐久間君って、たまに男の子らしいっていうか、距離が急に近くなるからびっくりしちゃうわ」
ヤヨイは黒髪を耳にかけながら、少し早口で言った。ベージュのコートに包まれた背中が、春の午後の温かさとは別の理由で熱くなる。
「すみません、失礼でしたか。……ただ、ヤヨイさんの文章の邪魔になるものは、少しでも取り除いておきたくて」
寡黙な佐久間が口にした、真っ直ぐすぎる言葉。彼はただ真面目に仕事の話をしているつもりなのだろうが、その純粋さが、かえってヤヨイの胸を優しく締め付けた。
「……もう、そういうところよ。仕事も生涯のパートナーも、これくらい真っ直ぐな人がいいのかもね」
「え? ヤヨイさん、何か言いましたか?」
「何でもなーい! ほら、次は筆塚の撮影よ。佐久間君、機材持って遅れないでね!」
ヤヨイは照れ隠しに活発な足取りで歩き出し、佐久間は「はい、すぐ行きます」と、重い三脚を肩に担ぎ直した。仕事を通してお互いをプロとして、そして一人の異性として意識し始める二人の影が、湯島天神の境内に静かに、けれどしっかりと刻まれていった。
新人たちの足跡(夕方16:30)
夕方の四時半。太陽が上野の山の方へと傾き始め、境内の総檜造りの社殿は、深く美しい黄金色に染まりつつあった。お礼参りの賑やかさも少し落ち着き、境内には静かで贅沢な「ありがとうの余韻」が満ちていく。
「近藤君! ちゃんと今の撫で牛のところの参拝客の動線のメモ、取った?」
ノートを胸に抱えた新人ADのまゆみが、同期の近藤の背中をペンでツンツンと突いた。二人はまだ駆け出しの若いアシスタントディレクターだ。当面は先輩たちの後ろを追いかけながら、参拝データや実際の現場での気づきをメモし、SNSの「あとがきコメント」を執筆する修行の日々を送っている。
「取った取った、完璧だって! 『4月初頭、若者たちの笑顔で境内が満ちていた。新生活への決意を感じる』……よし、これでXのドラフトはバッチリだ。まゆみさんこそ、授与所の受付時間の変更とか、コミュニティバスの停留所の位置、ちゃんとチェックした?」
「当たり前じゃない! 私を誰だと思ってるの。……でも、本当に今日のロケ、素敵だったね。チーコ先輩のあの集中力、神様が乗り移ったみたいだったし、蒼井先輩のカメラワークも惚れ惚れしちゃった」
「あ、それ僕も思った。それに、さっきの佐久間さんとヤヨイさんの雰囲気も、なんだかすごく大人でさ……。僕たちも早く、あの先輩たちみたいに、自分の作品で人の心を動かせるようになりたいよな」
近藤が夕日に目を細めながら言うと、まゆみも「そうだね」と小さく頷いた。二人の若きADのノートには、単なるデータだけでなく、先輩たちへの憧れと、自分たちの未来への希望がぎっしりと書き込まれていた。将来、メインキャラクターへ昇格する日を夢見て、二人の小さな一歩もまた、この湯島天満宮のサクラサク坂道から始まっていた。

湯島天満宮、男坂より

湯島天満宮、撫で牛
第二章:夏(五月の例大祭と、七夕の願いごと)
1.蒼井のファインダー、チーコの光(五月・例大祭の熱気の中)
五月下旬の湯島は、初夏の瑞々しい青葉を揺らす風とともに、境内全体が地響きのような熱気に包まれていた。湯島天満宮の「例大祭」。神輿を担ぐ人々の「ソイヤ、ソイヤ」という威勢の良い掛け声が、切通坂の下まで響き渡っている。 四月の穏やかな空気とは打って変わり、熱気と高揚感が五月の強い日差しに照らされ、陽炎のように揺れていた。
「チーコ! 人混みに流されるな! 担ぎ手のローアングル、人の隙間を狙え!」
蒼井が人混みの中で一歩前に出て、チーコを庇うようにしてシネマカメラを掲げた。三十歳を目前にした彼の横顔には、仕事の厳しさを知るプロとしての鋭い眼差しが宿っている。しかし、その体は無意識に、押し寄せる参拝客の波からチーコを守るための盾になっていた。
「はいっ……! 先輩、お神輿の鳳凰の金色の輝き、最高です! 撮れてます!」
カメラを構えたチーコの瞳に、一切の迷いはなかった。ファインダーを覗き込んだ瞬間に発動する、彼女だけの圧倒的な集中力。のんびりとした日常の姿からは想像もつかないプロの顔だ。額にじわりと汗を浮かべながら、流れるようにシャッターを切り続ける。
「ふぅ……! 凄かったです。熱気、そのまま切り取れました!」
神輿が拝殿前を通り過ぎた一瞬の静寂。チーコがいつもの明るい笑顔に戻り、蒼井の顔を見上げた。二人の距離は、人混みに押されて肩が完全に触れ合うほどに近かった。
「お疲れ、チーコ。……お前の撮る『熱』は、やっぱり画面越しでも人を熱くさせるな」
蒼井がふっと表情を緩め、持っていた冷たいお茶をチーコの頬にそっと当てた。
「ひゃっ! 冷たいです先輩! ……でも、先輩にそう言ってもらえると、暑さなんて吹き飛んじゃいます」
至近距離で目が合う。神輿の喧騒の真ん中で、二人の心臓が、祭りの太鼓とは違う速いビートを刻んでいた。
1.5. 蒼井のファインダー、チーコの光(六月・茅の輪くぐりの清冽な空気)
五月の例大祭が残していった熱狂が嘘のように、六月終わりの湯島天満宮は、しっとりとした梅雨の晴れ間の柔らかな光に包まれていた。 境内の正面には、青々とした茅(かや)で編まれた大きな「茅の輪」が据えられている。六月三十日。半年の間に知らず知らずのうちに身に溜まった罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈る「夏越しの大祓(なごしのおおはらえ)」の当日だった。
「チーコ、左回り、右回り、もう一度左回りだ。参拝客の方々の作法を邪魔しないように、引いた絵から狙うぞ」
蒼井がジンバルを片手に、茅の輪の向こうに見える総檜造りの社殿とのバランスをファインダー越しに測る。仕事の厳しさを知り、常に冷静な彼だが、今日のお祓いの神事特有の清冽な空気には、どこか優しい眼差しを湛えていた。
「はい! ……なんだか、この緑の輪をくぐるだけで、体の中からすーっと涼しい風が吹き抜けるみたいです。先輩、見てください。茅の輪をくぐる瞬間の、あの小さな女の子の弾んだ笑顔」
カメラを構えたチーコの瞳が、一瞬で鋭いプロの輝きを放つ。のんびりした日常から、ファインダーを覗いた瞬間に発動する圧倒的な集中力。蒼井はその姿をシネマカメラのモニターに捉えながら、自分の胸の奥の「穢れ」について考えていた。 ビジネスパートナーという便利な言葉の裏に、彼女への特別な感情を隠し続けている自分。その臆病な嘘を、この茅の輪は祓ってくれるだろうか。
「……ふぅ、撮れました! 先輩、私たちも人形(ひとがた)に息を吹きかけて、半分のお祓い、してもらいましょう!」
撮影を終えてほわんとした明るい笑顔に戻ったチーコが、紙の人形を2枚、嬉しそうに掲げる。
「そうだな。これまでの迷いを全部祓って、明日からまた、新しい気持ちでお前と向き合わないとな」
「え……? 先輩、それってどういう……」
「ほら、お参りするぞ」
蒼井は照れくさそうに歩き出したが、その背中は、四月の頃よりもどこか堂々として見えた。
2. 佐久間のノート、ヤヨイの丸眼鏡(六月・形代に託す本音)
同じ日の夕刻。茅の輪の青い草の匂いが、夕闇に溶け込む境内に心地よく漂っていた。
「佐久間君、ノートの『大祓』の由来、すごく分かりやすかったわ。読者目線でも、形代(かたしろ)に体を擦りつける理由がちゃんと伝わる記事になると思う」
ヤヨイが丸眼鏡の位置を細い指先で直し、長い黒髪を揺らして微笑んだ。柔らかなベージュのブラウスが、初夏の夕暮れに静かに映えている。
「ありがとうございます、ヤヨイさん。……でも、僕自身もこの形代で、自分の不甲斐なさを祓いたいと思っています」
カーキ色のジャケットを律儀に着た佐久間が、真面目な顔のまま、自分の形代を見つめて呟いた。寡黙で真面目、移動ルートや下調べを完璧にこなす縁の下の力持ちである彼は、常に自分の仕事がヤヨイの文章に相応しいかどうかを自問自答していた。
「不甲斐なさなんてないわよ。佐久間君がいてくれるから、私は安心して五感に集中した言葉を書けるんだから」
ヤヨイがそっと佐久間のノートに自分の手を重ねる。ヤヨイのお姉さんらしい優しさの中に、一瞬、大人の女性としての熱い体温が混ざった。
「ヤヨイさん……。僕、仕事のパートナーとしても、それ以上の関係としても、あなたをずっと支えられる男になりたいです。この半年の穢れと一緒に、僕の子供っぽさも全部、形代に引き取ってもらいました」
真っ直ぐすぎる佐久間の視線。ヤヨイの丸眼鏡の奥の瞳が、驚きと愛おしさで優しく潤む。
「……ずるいわね。大祓の神様の力、本当にあったみたい。私の心のブレーキも、全部綺麗に祓われちゃったみたいだから」
初夏の夜風が茅の輪を揺らす。お互いを生涯のパートナーとして意識し始めた二人の距離は、この日を境に、加速度を上げて縮まり始めていた。
2.5. 佐久間のノート、ヤヨイの丸眼鏡(七月・七夕の笹飾りの下で)
それから一ヶ月半が過ぎた、七月七日の夕暮れ時。 例大祭の激しい熱気は去り、湯島天満宮の境内は、どこか切なくも美しい、しっとりとした夏の夜の空気に満たされていた。拝殿の前には、参拝客たちの様々な願いが書かれた色とりどりの短冊が、大きな笹の葉に結ばれ、夜風にサラサラと涼しげな音を立てて揺れている。
「佐久間君、七夕のライトアップ、すごく綺麗。暗くなる前に、笹の葉越しに社殿が透ける構図で一枚お願いできる?」
長い黒髪を涼しげなまとめ髪にしたヤヨイが、丸眼鏡の奥の瞳を輝かせた。柔らかなベージュの浴衣姿が、夏の夜の境内に驚くほど映えている。SNS運営兼、記事校正を担当する二十八歳の彼女は、いつもはしっかり者のお姉さんとしてチームを引っ張る存在だ。
「わかりました。……ヤヨイさん、今日の浴衣、すごく似合ってます」
カーキ色のジャケットを脱ぎ、落ち着いた紺色のシャツを着た二十六歳の佐久間が、真面目な顔のまま、ノートから目を離して真っ直ぐに言った。寡黙で嘘をつけない性格の彼だからこそ、その言葉にはお世辞のひとかけらもない。
「え……っ、あ、ありがとう。急にそういうこと言うの、反則じゃない?」
ヤヨイは照れ隠しに丸眼鏡の位置を直したが、浴衣の袖を握る指先がわずかに震えていた。佐久間はそんな彼女の様子に気づいているのかいないのか、ショルダーバッグから小さな短冊を取り出した。
「これ、ヤヨイさんの分の短冊です。僕たちのサイトが、もっとたくさんの人に届くように、願い事を書きましょう」
「そうね、仕事の成功は絶対に書かなきゃ」
二人は並んでペンを走らせる。ヤヨイが書き終えて佐久間の短冊を覗き込むと、そこには『ヤヨイさんの文章が、これからも一番近くで支えられますように』と、彼の不器用で真っ直ぐな文字が躍っていた。
「佐久間、君……これ、仕事のお願いじゃないじゃない」
「……僕にとっては、生涯をかけて叶えたい、一番大事な願い事です」
真面目な瞳が、ヤヨイを射抜く。浴衣の胸の奥で、トクン、と大きな音が響いた。仕事のパートナーから、生涯のパートナーへ。七夕の織姫と彦星のように、二人の運命の距離が、夏の星座の導きによって静かに重なり合おうとしていた。
3.新人たちの足跡(ADたちの夏詣メモ)
社殿の明かりが茅の輪を幻想的に照らし出す頃、新人ADの近藤とまゆみが、熱心に形代の受付所の前でメモを取っていた。
「近藤君! 『茅の輪くぐりの緑の匂い、人形に託す半年の反省』……うん、Xのポスト用としては完璧なエッセイ風コメントが書けたよ!」
「さすがまゆみさん! それにしても、チーコ先輩と蒼井先輩が形代に息を吹きかけてる時のあの空気感さ……何ミリのレンズでも収まりきらないくらいの距離感だったよね。佐久間さんとヤヨイさんも、茅の輪くぐる時、一瞬手が触れそうになってて……僕たち、本当に良いチームに参加できたなぁ」
「そうだね。私たちも半年のドジをこの茅の輪でしっかり祓って、明日からの後半戦、先輩たちに負けないくらい全力でアシストしよう!」
二人の若いADのノートには、詳細な参拝データとともに、チームの一員としての誇りと、少しの初々しい胸の高鳴りが、初夏の夜空へと真っ直ぐに伸びるように書き込まれていた。
3.5. 新人たちの足跡(ADたちの夜回り)
夜の八時。ライトアップされた笹飾りが幻想的に浮かび上がる境内を、新人ADの近藤とまゆみが、熱心にノートを広げながら歩いていた。
「近藤君、短冊のデータ、ちゃんとメモした? 『例大祭の神輿の躍動感から、七夕の静寂へ。湯島天満宮の夏は二つの顔を持つ』……うん、この記事の導入、ヤヨイ先輩の校正一発でパスできるかも!」
「バッチリだって! それにしても、チーコ先輩と蒼井先輩の例大祭の映像、すごかったよな。それに、さっきの佐久間さんとヤヨイさんの浴衣の距離感……僕たち、完全に特等席で大人の恋愛映画観させられてる気分じゃない?」
「もう、近藤君は不謹慎! ……でも、本当に素敵だよね。私たちも早く、あんなふうにプロとしても、人間としても信頼し合える関係になりたいね」
まゆみが少し恥ずかしそうに夜空を見上げると、近藤も「だな。まずはこの七夕記事を大成功させよう!」と力強く頷いた。二人のノートには、先輩たちへのリスペクトと、いつか自分たちもメインの舞台に立つんだという初々しい決意が、夜風に揺れる短冊のように、キラキラと輝きながら書き込まれていた。

湯島天満宮、手水舎前より

湯島天満宮、拝殿前
第三章:秋(十一月の菊まつりと、表現者たちの誓い)
1.蒼井のファインダー、チーコの光(十一月・菊の迷宮と、引き寄せられる心)
十一月に入ると、湯島天満宮の境内はそれまでの緑の装いから一変し、格調高くも鮮やかな職人たちの芸術によって埋め尽くされていた。「湯島天神菊まつり」である。 一本の茎から数百もの見事な花を咲かせる「千輪咲き」や、歴史のひとコマを再現した絢爛豪華な菊人形が回廊に並び、境内には菊特有の、少しツンとした清々しい香りが密度高く満ちていた。秋の澄み切った斜光が花びらを透過し、白、黄、紫のグラデーションが石畳の上に鮮やかな影を落としている。
「秋の神社って、なんだか背筋が伸びますね。この凛とした空気と格調高い香りが、レンズを通すとおぼろげな輪郭をカチッと引き締めてくれる気がします」
チーコはファインダーから目を離し、深く息を吸い込んだ。彼女の服装も、夏のTシャツ姿から落ち着いたキャメル色のニットへと変わり、その佇まいにはこの一年間の取材を通じて、大人の女性としてのしっとりとした雰囲気が加わっているように見えた。
「そうだな。秋の光は柔らかいから、影が強く出すぎない。お前の得意な、情緒的なポートレートやディテールの質感を切り取るには最高のコンディションだ。ほら、ちょっとそこに立ってみろ」
蒼井はそう言って、動画カメラのレンズをチーコに向けた。いつもは被写体を追いかけて動き回る側のチーコが、少し照れたように菊の回廊の前に佇む。蒼井はフォーカスリングを回し、彼女の瞳にピントを合わせた。モニター越しに見る彼女の笑顔は、出会った頃よりもずっと洗練されていて、そして――ひどく魅力的だった。
「先輩、そんなにじっと見られると、カメラマンなのに緊張しちゃいます」
「仕事だ、我慢しろ。……すごく、綺麗に撮れてるよ」
「えっ……?」
チーコが目を丸くする。普段、滅多にストレートな褒め言葉を口にしない蒼井のセリフに、彼女の白い頬がみるみるうちに淡い桃色に染まっていく。それを見て、蒼井も自分が口にした言葉の重さに気づき、急に喉が渇いたような感覚に襲われた。「次は境内にある『文房至宝碑』と『筆塚』に行くぞ」と、早足で歩き出す。
筆塚の前に立つと、チーコは小さな手を合わせて、真剣な表情でお祈りを捧げた。湯島天満宮は学問の神様であると同時に、表現者にとっても大切な聖地だ。
「何をそんなに一生懸命祈ってたんだ?」
「私、もっともっと素敵な写真を撮れるようになりたいです。先輩が編集する素晴らしい映像の、その一部として恥ずかしくないような、最高の瞬間を切り取りたい。……先輩の隣に、ずっと並んで歩けるカメラマンになりたいですって、お願いしました」
その言葉は、真っ直ぐに蒼井の胸の最も深い場所に突き刺さった。ビジネスのパートナーとして、あるいはサークルの先輩後輩として。そんな都合の良い言い訳の仮面が、チーコの純粋な告白によって粉々に砕け散っていく。秋の夕暮れ、ライトアップされた境内の灯りが、二人の影を石畳の上に長く、そして静かに重ね合わせていた。
「……ずるいな、お前は」
蒼井の小さな呟きは、境内に優しく満ちる菊の香りに乗って、彼女の元へと届いたのだろうか。チーコはただ、嬉しそうに目を細めて笑っていた。
2.佐久間のノート、ヤヨイの丸眼鏡(十一月・夕暮れの水鏡と、静かな決意)
同じ日の夕刻。菊まつりのライトアップが始まり、境内の木々に吊るされた灯籠が、黄色や白の菊の花々を幻想的に浮かび上がらせていた。
「佐久間君、見て。心字池のまわりにも菊が飾られていて、水面に逆さスカイツリーと花の色が一緒に溶け込んでいるわ。まるで絵の具を流したみたいに綺麗……」
ヤヨイが丸眼鏡の位置を直しながら、ため息混じりに呟いた。柔らかなベージュ系のタートルネックに、長い黒髪をハーフアップにした彼女の横顔は、秋の夕暮れの街にひどく静かに映えている。
「はい、ヤヨイさん。この『文房至宝碑』の歴史についてもノートにまとめておきました。道具を大切にする文人の心が、現代の僕たちのクリエイティブにも繋がっている……そんな視点でSNSのコラムを書くと、きっと読者の方の共感を呼ぶと思います」
いつものカーキ色のジャケットの襟を少し立てた佐久間が、真面目な顔のまま、ヤヨイの隣でノートを開いた。彼は完璧な移動ルート確認や下調べをこなす縁の下の力持ちだが、ヤヨイの書く「参拝者目線の文章」の価値を誰よりも理解し、尊敬していた。
「本当に佐久間君の調べる歴史は、私の言葉にいつも新しい命をくれるわね。ありがとう、佐久間君」
ヤヨイが優しく微笑み、佐久間の持つノートの端をそっと指先で触れた。その拍子に、二人の手がかすかに触れ合う。いつもはお姉さんらしくリードするヤヨイだったが、秋の冷え込みとは裏腹に、触れた場所からじわりと熱が広がっていくのを感じていた。
「……ヤヨイさん。僕は蒼井先輩の作品に憧れてこのチームに入りましたが、今は、ヤヨイさんの紡ぐ言葉を誰よりも一番近くで支えたいと思っています。仕事のパートナーとしてだけじゃなく、これからも、ずっと」
寡黙な佐久間が口にした、確かな重量を持った本音。その真面目で真っ直ぐな瞳が、ヤヨイを射抜く。ヤヨイは丸眼鏡の奥の瞳を潤ませながら、小さな声で「私の未来のノートにも、あなたの名前を書いていいかしら」と微笑んだ。 表現者たちの誓いが集う秋の境内で、二人の関係は「生涯のパートナー」という約束へ向かって、静かに、けれど決定的に踏み出されていた。
3.新人たちの足跡(ADたちの菊ルポメモ)
夜の七時。ライトアップされた菊の花が夜の境内に妖艶に浮かび上がる中、新人ADの近藤とまゆみが、熱心にスマホの画面とノートを交互に見つめていた。
「近藤君! 『秋の湯島天神は、職人たちの情熱が咲き誇る場所。菊の香りに包まれて、私たちは自分たちの表現の未来を誓う』……よし、Instagramのストーリー用のキャッチコピー、これでヤヨイ先輩に見てもらおう!」
「いいね、すごく引き締まった文章だよ! それにしてもさ、今日のチーコ先輩のあの文房至宝碑を撮る時の集中力、横で見ていて鳥肌が立ったよ。蒼井先輩も完全に目が『一人の女性』を見てる時のそれだったし、佐久間さんとヤヨイさんの池のほとりでの空気感なんて、もう僕たちが入る隙なんて1ミリもなかったよね」
「ふふ、本当だね。でも、先輩たちが仕事にもお互いにもあんなに真摯に向き合っているのを見ると、私たちももっと頑張らなきゃって思うよね。半年のドジを大祓で祓ったんだから、この秋の菊まつり記事は絶対に大成功させよう!」
二人の若いADのノートには、詳細なイベントデータとともに、チームの一員としての成長と、いつか自分たちもその中心で物語を紡ぐんだという初々しい決意が、秋の夜風に揺れる菊の花のように、力強く書き込まれていた。

湯島天満宮、拝殿前

湯島天満宮、参道
最終章:冬(一月の鷽替え神事と、鳥替える未来)
1.蒼井のファインダー、チーコの光(一月・凍える指先とポケットのぬくもり)
一月二十五日。湯島天満宮は、一年で最も熱く、そして最もピンと張り詰めた空気に包まれていた。 数日後に迫った本番を前に、切実な願いを胸に秘めた受験生やその家族が、境内を隙間なく埋め尽くしている。絵馬掛けには、何千、何万という祈りが幾重にも重なり合い、冬の乾いた風が吹くたびにカラカラと、彼らの人生の重みそのもののような音を立てて響いていた。
「……くしゅん! す、すごい熱気ですね先輩。冬の澄み切った青空に、みんなの『絶対に合格するぞ』っていう想いが昇っていくみたい。シャッターを切る指が震えちゃいます」
チーコは真っ赤になった鼻をすする。彼女の手元を見ると、手袋は外され、カメラバッグのポケットに突っ込まれていた。細かなダイヤル操作を指先で正確に捉えるため、冬の屋外ロケでも絶対に手袋をしないというポリシーを、彼女はこの一年間頑なに守り続けてきた。その指先は、すでに感覚を失っているのではないかと思えるほど痛々しく赤紫に変色している。
「チーコ、頑固なのもいいが、指が動かなくなったら元も子もないだろ。ちょっとカメラを置け」
蒼井は撮影を一時中断し、チーコの前に立ち塞がった。シネマカメラを脇に抱え、自分のコートのポケットから、十分に温めておいた使い捨てカイロを取り出す。そして、躊躇うことなく、チーコの凍てついた両手を自分の大きな手で包み込み、その間にカイロを挟み込んだ。
「ひゃっ……! と、先輩……!?」
チーコが大きく目を見開いて硬直する。蒼井の手のひらから伝わる圧倒的な熱と、コートの影に閉じ込められた二人の距離。
「いいから黙って温まってろ。お前の写真は、ブレてたら意味がないんだ。……ほら、少しは感覚が戻ってきたか?」
蒼井はチーコの指先を優しく揉みほぐすようにマッサージする。その手つきは驚くほど丁寧で、大切にガラス細工を扱うようだった。チーコは俯いたまま、小さく「はい……あったかいです……」と呟いた。その声は、寒さのせいだけではなく、明らかな熱を帯びて震えている。
「先輩、私……春にここに来た時は、まだ仕事の付き合いって感じでしたよね。でも、夏も秋も冬も、一緒にいろんな景色を見てきて……私、先輩が隣にいてくれないと、もういい写真が撮れないかもしれません」
チーコが俯いたまま、きゅっと蒼井の手を握り返した。その言葉に、蒼井は今度は逃げなかった。彼女の真っ赤な手をもう一度そっと握りしめる。
「俺も同じだよ、チーコ。お前のファインダーが見つめる未来を、俺はこれからもずっと、特等席で記録し続けるって決めてるからな」
湯島の空から、ひらひらと初雪が舞い降りてきた。けれど、重ね合わされた二人の手のひらは、春の訪れよりもずっと早く、確かな熱を放ち続けていた。
2.佐久間のノート、ヤヨイの丸眼鏡(一月・うそ鳥に託す真実)
同じ日の午後、境内では年に一度の「鷽替え(うそかえ)神事」を求めて、果てしない行列が続いていた。「去年の悪いことを嘘(鷽)にして、今年は良いことに取り(鳥)替える」という天神様の教えに基づき、参拝客たちが手彫りの木彫りの「うそ鳥」を大切そうに胸に抱えている。
「佐久間君、見て。この小さなうそ鳥たちの、ちょっととぼけたような優しい表情。この木彫りのぬくもりを、参拝者目線の丁寧な言葉で伝えられたら、きっと読者さんの新しい一年の励みになるわよね」
ヤヨイが白いマフラーに顔を埋めながら、丸眼鏡の奥の瞳を和ませた。長い黒髪には、はらりと舞い落ちた初雪の結晶が小さくきらめいている。
「はい、ヤヨイさん。鷽替えの由来は記事の校正用に完璧に仕上げてあります。……それに、僕自身もこのうそ鳥に、替えてもらいたい『嘘』があります」
カーキ色のジャケットの上に厚手のコートを羽織った佐久間が、真面目な顔のまま、手の中のうそ鳥を見つめて静かに言った。
「嘘……? 佐久間君が嘘をつくなんて、珍しいわね」
「はい。僕はこれまで、ヤヨイさんの『頼れる後輩』のフリをしていました。ビジネスパートナーだから一線を画さなきゃいけないと、自分に言い訳の嘘をついていたんです。……でも、もう限界です。僕はヤヨイさんを、生涯のパートナーとして、一人の女性として愛しています」
寡黙な佐久間が口にした、ひたすらに真っ直ぐな真実の告白。 ヤヨイは丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、それから、溢れそうになる涙を堪えるようにして優しく微笑んだ。
「……本当に、不器用で真っ直ぐなんだから。天神様もびっくりして、私たちのこれまでの境界線を、全部『吉』に取り替えてくれちゃうわね。……よろしくね、私の大切な人」
ヤヨイは佐久間の腕に、そっと自分の腕を絡めた。張り詰めた冬の境内で、二人の運命は、生涯を共にする確かな約束へと、美しく取り替えられていた。
3.新人たちの足跡、そして次の聖地へ(夕方17:00)
夕方の五時。初雪が止んだ湯島天満宮の境内には、深く美しい夕暮れの紫色のグラデーションが広がっていた。お礼参りから始まった一年間の取材の灯りが、社殿を幻想的に浮かび上がらせ、境内には、やりきったチーム全体の「美しい余韻」が満ちていた。
「近藤君! 『一年の穢れを嘘に変え、僕たちは新しい未来へ鳥替える。湯島天満宮の冬は、すべての表現者と挑戦者の背中を温かく押してくれる場所だった』……よし、これで湯島天神編の全章のデータ、コンプリートだよ!」
「最高だ、まゆみさん! 先輩たちのあの最高のエンディング、僕たちのノートにも一生モノの記憶として刻まれたな。……さあ、余韻に浸るのもここまでだ。蒼井先輩から、もう次の取材先のデータが飛んできたぞ」
「えっ、もう!? 次はどこに行くの?」
近藤がスマホの画面を見せると、そこには鮮やかな朱色の太鼓橋と、春には藤色の雨を降らせるという、もう一つの天神様の写真が映し出されていた。
「次は……江東区の『亀戸天神社』だ。下町の天神さまで、また新しい物語を撮るんだって。佐久間さんからもう、錦糸町駅からの最短ルートと、船橋屋のくず餅のデータが送られてきてる」
「わあ、楽しみ……! 私たちも負けてられないね。早く先輩たちを追いかけよう!」
二人の若いADは、湯島天神の表鳥居をくぐり、切通坂をゆっくりと下り始めた。 振り返れば、黄金色にライトアップされた湯島天満宮の杜が、まるで「次の場所でも、良い物語を」と彼らの背中を優しく見送ってくれているようだった。 サクラサク坂道に残された四つの視線は、それぞれの胸に消えないぬくもりを抱いたまま、次なる下町の聖地、亀戸天神社へと、うきうきとした足取りで向かっていくのだった。