本編:春(三月下旬・出世の石段と、お互いの背中を支える一歩)
第1章:近代の檻と、突如として現れる絶壁
虎ノ門ヒルズの巨大なガラスの巨塔が、三月下旬の硬質な春の陽光を浴びて、周囲のオフィス街に冷たい反射光を投げかけている。最先端のテクノロジーと莫大な経済の奔流が凄まじい速度で交錯する港区のど真ん中。その、洗練という名の近代の檻をすり抜けた先に、突如として時間の流れが歪んだかのような異空間が現れる。
愛宕神社――。
一歩その敷地へと足を踏み入れた瞬間、四人の前に立ちはだかったのは、自然の山としては東京二十区内で最高峰を誇る愛宕山の斜面を垂直に切り裂くような、全八十六段の「出世の石段(男坂)」だった。
「……おいチーコ。冗談だろ。その重機材をすべて抱えたまま、この男坂を一段目からカメラを構えて登る気か?」
石段の麓、一段目の石畳を踏み締めたまま、蒼井が愛用のジンバルを強く握りしめ、少し低い、けれど張り詰めた声で振り返った。
三十歳を目前に控えた蒼井は、優しい中にも仕事に対する妥協のない厳しさを持った映像クリエイターだ。数々の厳しい現場で酸いも甘いも噛み締めてきたプロだからこそ、傾斜約四十度という、見上げる者を一瞬で圧倒するこの絶壁の危険性を誰よりも理解していた。
「登ります! 先輩、四国丸亀藩の曲垣平九郎は、この崖の上の満開の梅を馬で取りにいくために、ここを駆け上って一晩で出世したんですよね? だったら、私は一人の表現者として、この『上を見上げる挑戦者の視線』を、一段目からトップまで地を這うようなローアングルで、ノーカットの静止画として押さえたいんです!」
チーコは首から下げた愛機――塗装の少し剥げかけたフルサイズミラーレスカメラのグリップを指が白くなるほど強く握りしめた。その瞳には、いつもの放っておけないおてんばな面影は微塵もなく、かつてないほど鋭く、野生的なプロの輝きが宿っていた。
「馬鹿野郎、危なすぎる。レンズを三本も入れた機材バッグの重さで、もし後ろにひっくり返ったらどうするんだ。ここは俺がシネマカメラで先導して絵を作る。お前は右手の緩やかな女坂から安全に回り込め」
「嫌です! 先輩の映像の『土台』になる最高の写真を撮るって、浅草でも赤坂でも決めたんです。先輩が上から引っ張るなら、私は下から支える。ビジネスパートナーとして、私を甘く見ないでください!」
「――っ、チーコ……」
チーコの内に秘められた、表現への妥協なき「焔(ほむら)」。その圧倒的な熱量に、プロとして誰よりもストイックな蒼井は一瞬だけ息を呑み、それからフッと、敗北を認めるように口元を緩めた。
「……分かった。そこまで言うなら、お前のファインダーの力を信じる。ただし、俺のすぐ一歩後ろを絶対に離れるな。もしバランスを崩したら、俺の身体ごと受け止めてやる。いくぞ!」
「はい……っ! ――撮影スイッチ、オンです!」
第2章:傾斜四十度のゾーンと、背中を支える手
すぅ、と冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ直後、傾斜四十度の絶壁の途中で、チーコの神がかった「ゾーン」が最高出力で覚醒した。
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ――!
一歩上るごとに、太ももの筋肉に強烈な負荷がかかり、肉体が悲鳴を上げそうになる。上を見上げれば、あまりの急勾配に眩暈がしそうだった。けれど、ファインダーを覗き込むチーコの指先は、衣服が擦れる音すら置き去りにするような圧倒的な滑らかさでダイヤルを回し、完璧な光のデザインを切り取っていく。
冬の冷たさを残した春の風が石段を吹き抜ける。その風に舞う新緑の若葉、見上げる山頂の本殿の厳かな屋根、そしてその背景にそびえ立つ超高層ビルのコントラスト。
蒼井はチーコの重いバッグのストラップを片手でガチッと引き寄せ、彼女の身体が絶対にブレないようにホールドしながら、その凛とした、美しくも猛々しい横顔をシネマカメラのレンズで極限まで近くで捉え続けた。
(……なんだよこれ、心臓のバクバクが、階段のきつさのせいなのか、こいつがカッコよすぎるせいなのか、もう全然分かんねえ……!)
クリエイターとしての純粋な尊敬。そして、そのすぐ隣にある、名前をつけたら二度とビジネスパートナーには戻れなくなるような、圧倒的な愛おしさ。二人の魂の焔は、絶壁を一段上るごとに、激しくそのグラデーションを深めていった。


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第3章:八十六段の頂上と、ガツンと響く本音
そして――最後の一段を、二人は同時に強く踏み締め、山頂の境内へと登り切った。
「ふはぁぁ……! 八十六段、登り切りました……! 先輩、見てください、この圧倒的な達成感の絵!」
山頂の、すべての邪気を焼き尽くす「火産霊命(ほむすびのみこと)」を祀る社殿の前で、いつもの太陽のような明るい笑顔に戻ったチーコが、誇らしそうに液晶画面を見せてくる。そこには、大都会の頂点へ挑み、勝利を掴み取った者の熱い視線が、そのまま本物の光となって写り込んでいた。
「ああ、文句なしに最高の絵だ。……でも、チーコ。お前さっき『ビジネスパートナーとして』って言ったな。俺はもう、その便利な言葉に甘えて自分をごまかすのはやめる」
蒼井はチーコのカメラを持つ両手を、火の神様の前でガツンと力強く握りしめた。息を切らせたまま、まっすぐ彼女の瞳を射抜く。
「お前が下から俺を支えるっていうなら、俺は生涯をかけて、お前を一番高い場所まで引っ張り上げてやる。仕事だけじゃない。俺の隣を歩く、たった一人の女性として、ずっと俺の隣にいろ。……大覚悟、しとけよ」
「――っ! 先輩……っ、そんなの、最初から大覚悟のうえです……!」
至近距離で重なる視線。火の神様のエネルギーが、二人の恋心の導火線にガツンと火をつけたように、胸の奥から熱いぬくもりが溢れ出し、チーコの瞳から幸せの涙がぽろぽろとこぼれ落ちていった。
第4章:無血開城のノートと、生涯の主役
その頃、山頂にある「児の水(ちごのみず)池」のほとりでは、ヤヨイが佐久間から手渡された冷たいお茶を飲みながら、激しい呼吸を整えていた。
「はぁ……はぁ……、佐久間君、私の代わりに重い取材資料を持って一歩一歩上がってくれて、本当にありがとう。男坂のこの迫力、言葉が追いつかないわ……」
柔らかいベージュのコートの裾を少しはためかせながら、ヤヨイが丸眼鏡の位置を細い指先で直した。長い黒髪をきゅっと結んだ彼女の額にも、うっすらと汗がにじんでいる。
「ヤヨイさん、お疲れ様です。愛宕山の歴史、そして勝海舟と西郷隆盛がこの山頂から江戸の街を見下ろしながら、江戸を火の海にしないために直談判を行った『江戸城無血開城』のデータを、すべて完璧にノートにまとめてあります」
二十六歳の佐久間学は、黒髪短髪の落ち着いた佇まいで、いつものカーキ色のジャケットの襟を正し、ヤヨイの丸眼鏡越しに見つめる瞳を真っ直ぐに射抜いた。寡黙で真面目、完璧な下調べをこなす縁の下の力持ちだが、彼のリスペクトは常にヤヨイの言葉に向けられている。
「それと、ヤヨイさん。僕は、この出世の石段をヤヨイさんと一緒に登り切れて確信しました。これからの険しい人生の坂道も、僕があなたを背負ってでもトップまで上り詰めます。仕事の後輩のフリをする言い訳は、もう完全に終わりにしましたから。僕を、あなたの生涯の『主役』にしてください」
「……っ、もう! 佐久間君はいつも、こういう大一番でズルいくらいの直球なんだから……」
ヤヨイは驚きに丸眼鏡の奥の瞳を潤ませ、それから、長い黒髪を耳にかけながら、愛おしそうに微笑んだ。
「私のこれからの人生のノート、あなたという主役の名前で、全部埋め尽くさせてね、佐久間君」
池の中を優しく泳ぐ色鮮やかな錦鯉や、木陰でのんびり毛繕いをしている白い看板猫たちが、二人の新しい絆の結実を静かに祝福しているようだった。


第5章:美しい焔を胸に、次なる挑戦へ
「(大興奮の小声で)まゆみさん、見た!? 今日の先輩たち、熱血スポ根映画かと思ったら、最後のご褒美の甘さが限界突破してるよ……!」
「(大興奮の小声で)ね! 男坂の火の神様が、全員の恋の導火線にガツンと火をつけちゃった! この熱い余韻日記、SNSのドラフトに過去最高熱量で保存しちゃおう!」
新人ADの近藤とまゆみも、先輩たちの熱いプロとしてのプライドと、ガツンと深まった最高のハッピーエンドを誇らしそうにノートに書き留めていた。
「よし、チームケロ! 愛宕神社の春ロケ、これ以上ない大成功だ! 撤収して、次の季節の挑戦に向けて、プロのミーティングを始めるぞ!」
蒼井の力強い声が、春の澄んだ境内に心地よく響き渡った。チーコはカメラバッグをしっかりと背負い直し、満面の笑みで答えた。
「はい! 先輩の隣なら、どこまででも熱い頂上を目指します!」
大都会のビルの谷間にひっそりと、けれど圧倒的な勝運のパワーを湛えて佇む愛宕神社の杜は、絶壁を越えて本物の真実を結んだ四人の背中を、まるで「次の場所でも、最高の物語を」と祝福するように、静かに優しく見送ってくれているようだった。


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