第3話 東京タワーを見上げた夕暮れ

飯倉熊野神社、TeamKeroバックオフィス担当ケロ
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夕暮れの写真

佐久間君の写真には、人がほとんど写っていない。

それは偶然ではない。人通りが途切れるまで待ち、街そのものが息をつく瞬間を選んでいるのだと、以前チーコが教えてくれた。

その日の写真もそうだった。飯倉熊野神社の鳥居の向こうで、夕暮れの空が薄紫に変わり、ビルの間から東京タワーが赤く浮かんでいた。

ヤヨイさんの取材メモが添えられている。境内の由緒、八咫烏、サッカー御守、港七福神の恵比寿。必要な項目を読み終えたあと、私はもう一度、写真へ戻った。

塔を見たかったのではない。あの塔を見上げていた妻を探していた。

書類棚の下に、古い紙箱がある。領収書でも契約書でもない、捨てる理由を見つけられない紙だけを入れた箱だ。

映画の半券。閉店した店の名刺。妻が旅行先でもらった小さなパンフレット。

底に、東京タワーの絵葉書があった。

夜空に光る塔の写真。裏には妻の字で、短く書かれていた。

〈今度は、夜景を見に行きましょう〉

日付はなかった。けれど、いつ書かれたものかは分かった。

あの日、飯倉の坂で、二人並んで東京タワーを見上げたあとだった。

今度という約束

私たちは、初めから東京タワーへ行くつもりではなかった。

用事を済ませ、駅へ向かって歩いている途中、建物の隙間から白と赤の塔が見えた。夕日を受けた鉄骨が、昼と夜の間で色を迷っていた。

妻が立ち止まった。

「ねえ、見て」

「見えているよ」

「そうじゃなくて、ちゃんと見て」

妻が何かを見つけたとき、私はたいてい、見えていると答えた。見えていることと、見ることが同じだと思っていた。

「きれいね」

「まだ明るいから、照明は目立たないな」

「あなたは、どうしてすぐ説明するの」

「説明した方が分かりやすいだろう」

「きれいなものは、きれいでいいの」

妻は呆れた顔をしたあと、また塔を見上げた。

「今日は時間がないけれど、今度は夜景を見に行きましょう」

「今度な」

「その『今度』は、いつですか」

「仕事が落ち着いたら」

「では、仕事が落ち着いた記念日にしましょう」

「そんな記念日は、たぶん来ないぞ」

「困りましたね」

妻は笑った。私も笑った。

その場では、それで会話が終わった。

約束を破るつもりはなかった。忘れたつもりもない。ただ、来週より再来週、今月より来月の方が都合がいいと思い続けた。

約束には期限がなかった。期限がないものを、私はいつでも後ろへ送った。

やがて妻の体調が悪くなった。出かけられる日は減り、夜の外出は難しくなった。東京タワーの話を、妻は二度としなかった。

責められなかった約束ほど、あとに残る。

八咫烏のいる神社

十月中旬の夕方、私は一人で飯倉熊野神社へ向かった。

大江戸線の赤羽橋駅から歩けば六分ほど。東京タワーに近い麻布台の街は、坂と車の音に囲まれている。鳥居をくぐると、境内だけが通りから半歩引いているように感じられた。

飯倉熊野神社の古い記録は、元禄十六年の火災で失われ、創建の詳しい経緯は分からないという。伝承では、芝浦の海辺に祀られたのち、文明年間に太田道灌によって現在地へ再建されたとされる。御祭神は素戔嗚尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊。

熊野の神使は三本足の八咫烏で、道を導く存在として知られる。神社では八咫烏にちなむサッカー御守も授与されている。境内には港七福神の恵比寿も祀られている。

導きの鳥がいる場所で、私は道を間違えた日のことを考えた。

いや、間違えたのではない。行こうとしなかったのだ。

拝殿で手を合わせた。妻との約束を果たさせてください、と願うつもりはなかった。今日ここへ来たことを、あの夜景の代わりにしてもらおうとも思わなかった。

過去に代わりはない。

私は絵葉書を上着の内ポケットから出した。紙の端は柔らかくなり、塔の夜景は少し褪せていた。

風に飛んだ絵葉書

境内を出たところで、強い風が坂を上ってきた。

絵葉書が指を離れた。

赤い塔が裏返り、歩道を滑っていく。追いかけようとしたとき、黒いリュックを背負った若い男性が足でそっと止めた。

「これ、落としましたよ」

「ありがとうございます」

受け取ると、彼は表の写真を見た。

「東京タワー、これから行くんですか」

「いや」

私は答えてから、少し迷った。

「昔、行こうとして、行かなかったんです」

若者は困るかと思ったが、絵葉書と実物の塔を見比べた。

「じゃあ、今日は途中までですね」

「途中まで?」

「ここからも見えますから」

彼はそれだけ言い、坂を下りていった。

途中まで。

私は、その言葉を胸の中で繰り返した。

果たせなかった約束は、ゼロのままだと思っていた。二人で展望台へ行かなかった。夜景を見なかった。だから、あの日は何も残らなかったのだと。

だが私たちは、同じ夕暮れの塔を見上げた。妻はきれいだと言い、私は明るさの説明をした。妻は絵葉書を買い、裏に次の約束を書いた。

途中までは、一緒にいた。

その事実まで悔いで塗りつぶす必要はないのかもしれない。

妻が責めなかった理由

妻が入院していたころ、一度だけ東京タワーの明かりが病室の窓から見えた。建物の端に隠れ、上の方だけだった。

「約束、果たせなかったな」

私が言うと、妻は窓の外を見たまま答えた。

「何の約束?」

「夜景を見に行く約束だよ」

「そんなこと、言いましたか」

「言った」

「では、忘れてしまいました」

妻は本当に忘れているように笑った。私は、彼女が私を責めないためにそう言ったのだと思っていた。

けれど、今なら別の考え方もできる。

妻にとって、約束を果たすことだけが大切だったのではない。飯倉の坂で二人が立ち止まり、同じ塔を見たこと。その時間は、未完成ではなかったのかもしれない。

もちろん、妻の本心は分からない。もう確かめることもできない。

だから私は、都合のいい答えを妻に言わせるのではなく、自分の判断として決めることにした。

今日は東京タワーへ行かない。

日が落ち、塔の照明がはっきり見えるまで待つこともしない。

全部をやり直さなくていい。妻と来られなかった場所へ一人で行き、同じ景色を再現しても、過去が正しくなるわけではない。

夕暮れが夜へ変わる前に、私は駅へ向かった。

逃げたのではない。帰る時間を、自分で決めた。

絵葉書の裏側

帰宅して、机の明かりの下で絵葉書を見た。

〈今度は、夜景を見に行きましょう〉

妻の文字の下に、もっと小さな字があった。これまで日付のようなものだと思い、読もうとしなかった。

〈宝珠院の弁天さまにも寄りたい〉

東京タワーの近くにある寺の名だった。

私はスマートフォンを開き、佐久間君とヤヨイさんへメッセージを送った。

〈写真と資料をありがとう。飯倉熊野神社へ行ってきました〉

少し考えて、もう一行加える。

〈宝珠院の取材素材もありますか〉

ヤヨイさんから、丸眼鏡の笑顔が浮かぶような早い返事が来た。

〈あります。弁財天さまだけでなく、閻魔さまも、三すくみもあります。どこから送りましょう〉

私は笑った。資料の量が多いときのヤヨイさんは、文章まで早口になる。

〈最初からお願いします〉

送信して、絵葉書を古い手帳へ挟んだ。銀杏の葉の次の頁だった。

果たせなかった約束は消えない。

しかし、それを悔いと呼び続けるか、二人で途中まで歩いた記憶と呼ぶかは、今の私に残されている。

飯倉熊野神社の基本情報

所在地 東京都港区麻布台2-2-14
交通 都営大江戸線 赤羽橋駅から徒歩6分
電話 03-3589-6008
御祭神 素戔嗚尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊
特徴 熊野の神使である八咫烏 サッカー御守 港七福神の恵比寿
授与所の対応時間、御朱印、授与品、行事は変更される場合があります。遠方から参拝する場合は、事前に神社へご確認ください。

出典と確認日

港区観光協会 VISIT MINATO CITY 飯倉熊野神社
https://visit-minato-city.tokyo/ja-jp/places/1270
創建記録の焼失、八咫烏、サッカー御守、港七福神の恵比寿、所在地、赤羽橋駅からの徒歩時間。サイト確認日 2026年9月24日。

港区観光協会 港七福神めぐり記事
https://visit-minato-city.tokyo/ja-jp/articles/447
創建伝承、太田道灌、御祭神、恵比寿稲荷、宝珠院からの徒歩動線。記事公開日 2021年12月9日、サイト確認日 2026年9月24日。

港区観光協会 港七福神巡りオススメルート
https://visit-minato-city.tokyo/ja-jp/routes/1
八咫烏、サッカー御守、港七福神の恵比寿に関する案内。ページ公開日 2019年10月11日、サイト確認日 2026年9月24日。

物語内のケロ、亡き妻、Teamケロ、絵葉書を拾った若者の会話と出来事、東京タワーの絵葉書はフィクションです。社寺に関する事実は上記情報を基にしています。