第10話 もう一度 石段を上る

愛宕神社、TeamKeroバックオフィス担当ケロ
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上れますか

〈また愛宕の石段を上れますか〉

第9話で手紙を出した相手からの返事を、私は三日間、机の右端に置いていた。断る理由を考えていたわけではない。上れる、と書くには自信がなく、上れない、と書くにはまだ早い気がした。

愛宕神社へ最後に行ったのは、妻と一緒だった。正確な年は、古い御朱印帳を見なければ分からない。若い頃に男坂の急な石段を上った日と、ずっと後に緩やかな道を選んだ日が、記憶の中で近くに並んでいる。

私は返事に、〈行ってみようと思います〉とだけ書いた。相手を誘わなかった。約束もしなかった。まず自分の足で確かめたかった。

前日の夕方、Teamケロの六人から、それぞれ短い連絡が届いた。チーコは次の撮影候補、蒼井は年明けの進行表、佐久間は写真の選定、ヤヨイは原稿の見出し、近藤君は新しいレンズ、まゆみさんは資料の整理について。

私はすぐには返さず、六件を未読に戻した。急ぎではないことは分かっている。返事は愛宕山の上で書こうと決めた。

鞄には、妻と使った古い御朱印帳と、まだ一頁も開いていない新しい御朱印帳を入れた。新しい方は、妻のためではなく、自分のために用意したものだった。

若い足と今の足

十二月下旬の朝は、雲の少ない冬晴れだった。神谷町駅から歩くと、愛宕山の木々の前に石段が立ち上がっていた。

愛宕神社は、慶長八年、一六〇三年、徳川家康の命により防火の神として祀られたと公式サイトに記されている。主祭神は火産霊命。境内は海抜二十六メートルの愛宕山にある。

正面の急な男坂は、出世の石段として知られる。港区の文化財資料では八十六段、その右手の女坂は百七段とされている。段数だけなら女坂の方が多いが、勾配は緩やかだ。

私は男坂の下で立ち止まった。若い頃の私は、妻より先に上り、振り返って得意そうに手を振った。

「競争しているの?」

「していない」

「していない人は、そんな顔をしません」

妻は息を切らしながら笑い、私の手を借りずに上った。頂上で私より先に水を飲み、勝ったような顔をした。何に勝ったのかは、二人とも知らなかった。

その記憶に押されて石段を上るのは違うと思った。若い自分を証明する必要はない。妻に追いつく必要もない。私は一段目へ右足を置き、手すりに軽く触れた。

途中で休む

十段ほどで、脚が思ったより重いと分かった。二十段を過ぎると、呼吸を整えるために立ち止まった。下を見ない方がよいと言う人もいるが、私は振り返った。

街が少し低く見えた。上った分だけ景色が変わる。当たり前のことなのに、若い頃は頂上しか見ていなかった。

携帯電話が震えた。近藤君から〈急ぎません。年明けで大丈夫です〉と追加の連絡が来ていた。私は画面を閉じた。今すぐ答えなくても、関係は切れない。第2話で妻を待たせた日の私は、それが分からなかった。

妻がいた頃の私は、立ち止まることを遅れだと思っていた。仕事でも散歩でも、予定した時刻に予定した場所へ着かなければ落ち着かなかった。だが、妻と歩いた東京の記憶には、道を間違えた時間や、予定になかった店で休んだ時間の方が多く残っている。

もう少し上り、また休んだ。第3話で果たせなかった約束を思い、第4話で分からない願いを分からないまま残したことを思った。一つだけになった御守り、桜のない増上寺、見つからなかった猫、色の違う二本の栞、妻の住所録。

十番稲荷神社から始めた散歩は、妻を取り戻す道ではなかった。歩くたびに、戻れないことを確かめる道でもあった。だが、戻れないと知ることは、すべてを失うことではなかった。

息が落ち着くのを待ち、また一段上った。休むことは、諦めることではない。遅くなることは、置いていかれることでもない。今の私の足で進むための時間だった。

置いていくことと先へ行くこと

妻と後年に訪れた日は、私たちは男坂を選ばなかった。身体の調子について、まだ詳しいことを言い合わなかった時期だった。

「今日は、こっちにしましょう」妻が緩やかな道を指した。

「上まで行けるか」

「行けなければ、途中で帰ればいいでしょう」

「せっかく来たのに」

「せっかく来たから、無理をしないの」

その日はゆっくり上った。途中で何度も休み、妻は木々を見上げた。私は時間ばかり気にした。

「先に行っていいのよ」

「一人で行っても意味がない」

「先に行くことと、置いていくことは違います」

私はその言葉を、長い間、妻が自分の体調を気遣って言ったのだと思っていた。今は少し違って聞こえる。夫婦は同じ速さで歩けない時期がある。それでも、先へ進んだ人が、残った人を捨てたことにはならない。

現在の私は、男坂の途中で再び息を整えた。記憶の妻は、私を急かさなかった。声が聞こえたわけではない。あの日の表情と、言葉の順番を思い出しただけだ。

私は手すりから手を離し、自分の足で次の一段へ進んだ。

新しい一頁

石段を上り終えたとき、達成感より先に安堵が来た。呼吸は乱れ、脚も張っていた。若い頃のように格好よくはなかった。それでよかった。

境内で参拝し、しばらく池の近くに立った。社殿のほか、太郎坊社、福寿稲荷社、大黒天社などが境内に祀られている。街の上にありながら、冬の光は静かだった。

私は古い御朱印帳を開いた。妻と歩いた社寺の頁が続いている。空白もあった。行くつもりで行けなかった場所なのか、ただ次の頁を残したのか、今では分からない。

その空白を埋めるために、今日の記録を置くのはやめた。古い一冊は未完成のままでよい。未完成だから価値が足りないのではない。私たちが歩いた時間は、完成品を作るためにあったわけではない。

古い帳面を閉じ、新しい御朱印帳を取り出した。第一頁を開く。愛宕神社で御朱印を受ける場合の受付方法や時間は、公開前に公式情報を改めて確認する。ここで大切なのは、印の有無ではなく、私が新しい頁を開いたことだった。

妻との帳面を捨てるのではない。鞄の中には二冊とも入っている。過去を閉じ込める一冊と、未来だけを書く一冊でもない。どちらも、今の私が持って歩く。

新しい頁には、妻の知らない場所も増えていくだろう。それを寂しいと感じる日もあるはずだ。けれど、妻が知らない時間を生きることは、妻との時間を裏切ることではない。私の人生が、あの日で終わらなかったというだけのことだった。

来年も歩こう

携帯電話を開き、六人からの連絡へ順番に返事をした。チーコには撮影候補の確認。蒼井には進行表の修正。佐久間には写真の選定を任せること。ヤヨイには見出し案への感想。近藤君にはレンズ購入の相談日。まゆみさんには資料への礼。

六件目まで書いてから、私は新しいグループメッセージを開いた。業務連絡ではない文章を、仕事仲間へ送るのは初めてだった。

〈第1期の企画、ありがとうございました〉と書き、いったん消した。まだ公開も取材も終わっていない。礼を言って閉じるには早い。

代わりに、短く書いた。

〈来年も歩こう〉

送信すると、最初にチーコから蛙の印が返ってきた。蒼井は〈もちろんです〉。ヤヨイは〈次はどこですか〉。佐久間はカメラの印、近藤君は階段の印、まゆみさんは〈今度は全員で〉と送ってきた。

若者たちは妻の代わりではない。私が失った場所を埋めるためにいるのでもない。六人には六人の時間があり、やがて私とは違う道を歩く。だからこそ、今、一緒に歩けることを言葉にしたかった。

帰りは急な石段を下りず、緩やかな道を選んだ。上った道と同じ道を戻らなくてもよい。

麓へ着いて振り返ると、愛宕山の木々が冬空の下にあった。私は妻へ話しかけなかった。忘れたからではない。君との時間は、もう言葉にしなくても鞄の中にあり、私の歩幅の中にあった。

一人で帰る道は、来たときほど寂しくなかった。石段を上り切ったからではない。帰る先に、六人の仕事机があり、返事を待っている人たちがいると分かったからだ。妻と暮らした家だけが、私の帰る場所ではなくなっていた。

携帯電話には、六人の返事が並んでいた。私はそれを読みながら、現在の街へ歩き出した。

愛宕神社の基本情報

所在地 東京都港区愛宕1-5-3
主祭神 火産霊命
創建 慶長8年(1603年)
海抜 26メートル
境内末社 太郎坊神社、福寿稲荷神社、弁財天舎、恵比寿大黒社
石段 港区文化財資料では男坂86段、女坂107段
交通 神谷町駅・虎ノ門ヒルズ駅から徒歩5分、虎ノ門駅・御成門駅から徒歩8分、新橋駅から徒歩20分
御朱印、授与品、ご祈祷、社務所の受付時間は変更される場合があります。参拝前に愛宕神社公式サイトまたは社務所で最新情報をご確認ください。

出典と確認日

愛宕神社公式サイト『愛宕神社について』
https://www.atago-jinja.com/about/
主祭神、配祀、境内末社、1603年の創建、海抜、沿革を確認。サイト確認日 2026年9月25日。

愛宕神社公式サイト『境内のご案内』
https://www.atago-jinja.com/guide/
社殿、境内末社、社務所、招き石、将軍梅などを確認。サイト確認日 2026年9月25日。

愛宕神社公式サイト『交通のご案内』
https://www.atago-jinja.com/access/
利用駅、各駅からの徒歩時間、バス停を確認。サイト確認日 2026年9月25日。

港区立郷土歴史館『愛宕山参道及び男坂・女坂』
https://www.minato-rekishi.com/museum/2020/10/R02-05.html
男坂86段、女坂107段、愛宕山の標高、参道の文化財情報を確認。サイト確認日 2026年9月25日。

物語内のケロ、亡き妻、Teamケロの会話と出来事、新旧二冊の御朱印帳はフィクションです。愛宕神社での御朱印の受付方法や時間は、公開直前に公式情報を再確認してください。