午後七時を少し回ったころ、Teamケロの事務所には、私ひとりが残っていた。
若い連中は、もう帰った。正確に言えば、帰らせた。
チーコは最後まで写真の色を気にしていたし、蒼井君は翌日の撮影順をもう一度確認したがった。佐久間君はメモリーカードを机に置き忘れ、ヤヨイさんに呼び止められた。近藤君とまゆみさんは、駅までどちらが機材を持つかでもめていた。
にぎやかな一日だった。
若者が六人もいれば、仕事場はいつだって少し騒がしい。そして、彼らが帰ったあとの静けさは、人数以上に広く感じられる。
私は湯のみの底に残った冷たい茶を飲み、パソコンの画面へ向き直った。
今日届いたのは、麻布十番の取材素材だった。
蒼井君の報告書には、駅からの動線、撮影した時間、境内で確認したものが几帳面に並んでいる。その横で、チーコが撮った写真を一枚ずつ開いた。
鳥居。石段。宝船。そして、蛙の石像。
そこで、指が止まった。
写真の蛙は、雨に濡れていた。丸い背中に残った雫が、境内の光を小さく映している。
――あなたに似ているわね。
妻の声が聞こえた、とは書かない方がよいのだろう。
もう、その声が現実に聞こえるはずはない。
ただ、思い出したのだ。
声の高さも、言葉のあとに少し笑う癖も、私の返事を待たずに次の話を始めるところも。
「どこが似ているんだ」
誰もいない事務所で、私は写真に向かって言った。
もちろん、答えはない。
画面の蛙は、雨に濡れたまま、ずいぶん昔の私たちを知っているような顔をしていた。
私は机の一番下の引き出しを開けた。
奥には、長いこと触れていない御朱印帳がある。妻と二人で歩いた東京が、紙の中に閉じられている。
取り出そうとして、やめた。
その夜の私には、まだ少し重かった。
代わりに手帳を開き、日曜日の欄へ短く書いた。
十番稲荷神社。
過去へ戻れるとは思っていない。
それでも人には、ときどき思い出の中を通らなければ、今日へ帰れない夜がある。