意見が三つに割れた日
Teamケロの企画会議は、珍しく開始十分で意見が割れた。次の連載特集をどう組むか。三組がそれぞれ違う案を持ってきた。
チーコと蒼井は、写真と映像を中心にした季節の社寺巡り。佐久間とヤヨイは、土地に残る言葉や小さな逸話を拾う連載。近藤君とまゆみさんは、若い読者が実際に歩ける半日コースを提案した。
どれも悪くない。悪くないから、一つに決めにくかった。
「軸が三つあると散らかりませんか」蒼井が言った。
「一つにすると、拾えない話が出ます」ヤヨイが丸眼鏡を上げた。
近藤君は発言の機会を待ち、まゆみさんが先に口を開いた。「歩く人には、正解より選択肢が必要だと思います」
私は議論を聞きながら、共通点を探した。共通点さえ見つければ、全員を同じ方向へ向かせられる。オーナーとして、それが会議をまとめる方法だと思っていた。
だが、共通点を急ぐほど、三つの案の輪郭が薄くなった。
結論を求める視線が私へ集まった。私は資料を閉じた。
「今日は決めません。持ち帰ります」
会議を先延ばしにしたようで、少し居心地が悪かった。それでも、その場で一案を勝たせる気にはなれなかった。
机へ戻ると、白金で見つけた妻の猫の落書きが目に入った。裏には、〈同じ方を見なくても、帰るところが同じならいい〉。乃木神社で言い争った日の言葉だった。
二本の栞
本棚の奥から、薄い文庫本を取り出した。妻と一冊ずつ買った本で、私の本には紺色、妻の本には橙色の栞が挟まっていた。左右で色が違い、幅も素材も違う。私は無地を選び、妻は小さな花模様を選んだ。
二本は揃いではない。買った店も、たぶん別だった。それなのに私は長い間、夫婦で同じ本を読んだ記念品だと思い込んでいた。実際には、私は歴史の本を選び、妻は暮らしの随筆を選んだ。
乃木神社へ行った日は、私たちの意見が大きく食い違っていた。私は仕事を続けたかった。責任があり、途中で投げられない案件があると言った。妻は暮らしを変えたかった。住む場所と、私の働き方と、二人の時間を見直したいと言った。
どちらが正しかったか。今でも決められない。あのころの私は、正しさを決めれば夫婦喧嘩も終わると思っていた。
文庫本から二本の栞を抜き、机に並べた。紺と橙。共通点は、本に挟む物ということだけだった。
翌朝、私は二本を手帳へ入れ、乃木神社へ向かった。
言い負かしたかった夫
十二月上旬の朝は静かだった。千代田線乃木坂駅の一番出口から地上へ出ると、乃木神社はすぐ近くにある。境内の緑は冬の色へ変わり、通勤する人の足音が道路の方へ流れていった。
乃木神社は、乃木希典命と乃木静子命を祀る。大正十二年、一九二三年に鎮座祭が斎行された。戦災で社殿を失い、昭和三十七年、一九六二年に本殿、幣殿、拝殿が復興している。近くには旧乃木邸が残る。
夫婦を祀る神社という言葉だけを見れば、仲のよい夫婦の物語を置きたくなる。けれど、他人の夫婦を一つの言葉で決めることはできない。まして、自分たちの夫婦を美しい結論だけに直すことはできなかった。
妻と来た日も、私たちは参拝を終えてなお口をきかなかった。
境内の端に並んで座ったが、私は社殿の方を見ていた。妻は道路の向こうを見ていた。身体は近く、視線は反対だった。
「仕事を辞めろと言っているわけではない」
妻が先に言った。
「同じことだろう。時間を減らせば、責任を果たせない」
「私への責任は?」
「生活を守るために働いている」
「私は生活費の話をしていない」
私は黙った。妻の言う生活と、私の言う生活は、同じ言葉で別のものを指していた。
「では、具体的にどうしろと言うんだ」
答えを求めたようで、私は妻を言い負かそうとしていた。具体案に弱点があれば、今の暮らしを変えずに済む。
妻は私を見なかった。
「それを二人で考えたいと言っているの」
私は、考えるとは結論を出すことだと思っていた。妻は、答えの出ない時間を二人で持つことだと思っていた。
同じ方を見なくても
現在の境内を歩き、あの日座った場所を探した。正確な位置は分からない。第7話で、記憶の再現を急がなくてもよいと知ったばかりだ。私は似た場所に腰を下ろした。
手帳から二本の栞を出した。妻の橙色は少し毛羽立ち、私の紺色は折り目だけが残っている。別々の本に挟まれ、別々の時間を過ごした物だ。
回想の中で、妻はしばらく道路を見ていた。
「夫婦なら、同じ方を見なければいけないのかしら」
「別々に見ていたら、進む方向が決まらない」
「いつも決めなくていいでしょう」
「決めないと、どこにも行けない」
妻はそこで初めて私を見た。怒ってはいなかった。呆れてもいたし、疲れてもいた。私が後から思い出しやすいような、きれいな表情ではなかった。
「同じ方を見なくても、同じ場所に帰れればいいのよ」
「帰る場所まで違ったら?」
「そのとき考える」
「今、考えるんじゃないのか」
「あなたは今日中に人生を決めたいの?」
私は言い返せず、妻は小さく笑った。白金で思い出せなかった笑い方とは違う。これは、口元だけの少し意地悪な笑いだったと思う。確信はない。それでもよかった。
私たちは和解しなかった。帰りの電車でも、ほとんど話さなかった。けれど同じ家へ帰り、別々の本を読んだ。後日、私の働き方は少しだけ変わった。妻の望みどおりではなく、私の望みどおりでもなかった。
夫婦の歩み寄りは、美しい中間点ではない。片方が半歩動き、もう片方が別の日に一歩戻る。その不揃いな繰り返しだった。
違いを残す案
携帯電話で三組の企画書を開いた。今度は共通点を探さず、それぞれが何を失いたくないのかを読んだ。
チーコと蒼井は、場所の空気を映像と写真で残したい。佐久間とヤヨイは、見過ごされる言葉を拾いたい。近藤君とまゆみさんは、読者が自分の足で歩ける入口を作りたい。目的を一つに縮める必要はなかった。
私は事務所へ戻り、統合案を書いた。
第一部は写真と映像による導入。第二部は土地の物語。最後に半日で歩ける実用ルート。三つを混ぜず、三つのまま順番に置く。
会議用の共有ファイルへ上げると、蒼井から先に返事が来た。
〈まとまっていますが、別々ですね〉
〈別々のままで進めたいと思います〉と返した。
ヤヨイは〈削られなかったので安心しました〉と書き、近藤君は〈ルートを最後まで担当します〉と続けた。チーコからは、三色の丸が並んだ印だけが届いた。
若者たちは、妻の代わりではない。妻から学んだ言葉を、そのまま当てはめる相手でもない。それぞれ違う人間で、私と同じものを見る必要はない。私は彼らの違いを、管理すべき乱れではなく、仕事を広げる力として信じたかった。
二本の栞を、同じ文庫本へ戻すのはやめた。紺は私の本へ、橙は妻の本へ挟んだ。別々の頁に置いても、二冊は同じ棚へ戻った。
棚の中で二冊の背表紙は揃わない。揃わないまま隣にある。その眺めは、若いころに思い描いた夫婦像より、実際の私たちに近かった。
次に帰る場所
統合案の候補地欄には、赤坂氷川神社と書いた。三組の案を試せる場所として、チーコが挙げていた。由緒を追い、写真を撮り、周辺を歩く。三つの視点が同じ場所へ集まる。
私は会議の日程を入れ、六人全員へ送った。以前なら、資料を完成させてから見せただろう。今回は未完成のまま共有した。
〈意見が違うままで構いません。次回、続きを話しましょう〉
送信したあと、妻の本を棚へ戻した。私の本とは背表紙の色も高さも違う。それでも隣に置いた。
私たちは、いつも同じ方を見た夫婦ではなかった。大切なことほど意見が割れ、言わなくてよいことまで言い、同じ部屋で別々の本を読んだ。
それでも帰る場所を何度も選び直した。最後まで完全に一致しなかったことは、夫婦でなかった証拠ではない。違うまま隣にいた時間こそ、私たちの暮らしだった。
窓の外で風が強くなった。次は木枯らしの夕方になるだろう。赤坂氷川神社で、終わった縁と続いている縁について考えることになる。
私は六人から届き始めたコメントを、一つも閉じずに読んだ。
乃木神社の基本情報
所在地 東京都港区赤坂8-11-27
御祭神 乃木希典命 乃木静子命
鎮座 1923年11月1日に鎮座祭を斎行
沿革 1945年の空襲で社殿を焼失し、1962年に本殿・幣殿・拝殿を復興
交通 東京メトロ千代田線 乃木坂駅1番出口から15メートル
公式サイト掲載時間 開門6時から17時。授与所・祈願受付は平日9時30分、土日祝9時から17時
開門時間、授与所、祈願受付、行事、旧乃木邸の公開日は変更される場合があります。参拝前に乃木神社公式サイトで最新情報をご確認ください。
出典と確認日
乃木神社公式サイト『由緒』
https://nogijinja.or.jp/history.html
御祭神に関する経緯、1923年の鎮座、1945年の戦災、1962年の社殿復興を確認。サイト確認日 2026年9月25日。
乃木神社公式サイト『交通アクセス』
https://nogijinja.or.jp/access.html
所在地、乃木坂駅1番出口からの距離、開門時間、授与所・祈願受付時間を確認。サイト確認日 2026年9月25日。
東京メトロ『乃木坂駅』
https://www.tokyometro.jp/station/nogizaka/index.html
乃木坂駅1番出口の周辺施設案内を確認。サイト確認日 2026年9月25日。
物語内のケロ、亡き妻、Teamケロの会話と出来事、二本の栞はフィクションです。乃木夫妻の史実をケロ夫婦へ重ねるものではありません。神社に関する事実は上記公式情報を基にしています。