麻布氷川神社・参拝短編ストーリー

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向き合う狛犬

麻布十番の坂道を上りきったところで、チーコは立ち止まった。

「蒼井、ちょっと待って」

「今度は何だ」

「坂の下から撮りたい」

「さっきも撮っただろう」

「さっきとは光が違うの」

チーコはカメラを構え、今歩いてきた坂へレンズを向ける。

夏の終わりに近い午前。

元麻布の住宅街へ差し込む光はまだ強いが、風にはほんの少しだけ秋の気配があった。

蒼井は腕時計を見る。

「予定より十二分遅れてる」

「十二分なら誤差よ」

「チーコの誤差を積み重ねると、一時間になる」

「撮影ってそういうものなの」

「知ってる。大学の頃から」

その言葉に、チーコは一瞬だけシャッターを切る指を止めた。

大学の頃から。

何気なく言われたその言葉が、妙に胸に残った。

「何?」

「いや」

「変な顔してる」

「してない」

「してる」

「蒼井、先に行って」

「誤魔化したな」

「撮るから」

蒼井はそれ以上追及せず、麻布氷川神社の鳥居へ向かった。

鳥居をくぐる。

境内へ入ったチーコは、すぐに足を止めた。

「ねえ、蒼井」

「今度は何だ」

「この狛犬」

境内にいる二体の狛犬。

普通なら、それぞれ参道側を向いているように感じる。

ところが麻布氷川神社の狛犬は、どこか互いを意識しているように見えた。

チーコは二体の間へ移動し、しゃがみ込んだ。

「向き合ってる」

「そう見えるな」

「珍しいよね」

「ああ」

「何を話してるんだろう」

蒼井は狛犬を見た。

「何百年も同じ場所にいたら、話すこともなくなるんじゃないか」

チーコは振り向いた。

「夢がない」

「ではチーコは何を話す」

「今日のお天気とか」

「何百年も?」

「昨日の参拝者の話とか」

「何百年も?」

「じゃあ……」

チーコは考えた。

「昔のこと」

「昔?」

「この神社が一本松のあたりにあった頃とか。戦争の頃とか。社殿が建て直された頃とか」

蒼井は少し黙った。

「それなら、話すことは多そうだな」

「でしょ」

チーコはカメラを構えた。

二体の狛犬を一枚に収める。

シャッター。

もう一枚。

「ねえ」

「何だ」

「この二人って、喧嘩してるようにも見える」

「そうか?」

「ずっと睨み合ってるとか」

「逆じゃないのか」

「逆?」

蒼井は狛犬を見たまま言った。

「見つめ合ってるんじゃないのか」

チーコの手が止まった。

「……え?」

「向き合ってるんだろう」

「今、蒼井が言った?」

「何が」

「見つめ合ってるって」

「ああ」

チーコはカメラから顔を離し、蒼井をじっと見た。

「何だ」

「蒼井でも、そういうこと言うんだ」

「意味が分からない」

「もっと現実的なこと言うかと思った」

「例えば?」

「互いの死角を確認してる、とか」

「狛犬に警備計画を立てさせるな」

チーコは笑った。

でも、なぜか少し恥ずかしくなって、またファインダーを覗いた。

向き合う二体。

その向こうに蒼井が立っている。

チーコは、構図を変えた。

「蒼井、そこ動かないで」

「俺も入れるのか」

「比較」

「何との」

「狛犬」

「嫌な比較だな」

シャッターを切る。

狛犬の向こうに、蒼井。

少し離れている。

でも同じ方向を見ている。

参拝を終えたあと、チーコは授与所の前で足を止めた。

「勝守」

「受けるのか」

「自分自身にも勝つお守りなんだって」

「何に勝つ」

「いろいろ」

「具体的には?」

「言わない」

その隣。

えんむすび守。

チーコの視線が一瞬だけ止まった。

蒼井は気づいていない。

……と思った。

「そっちは?」

「え?」

「見てただろう」

「見てない」

「見てた」

「デザインを見ただけ」

「そうか」

蒼井はそれ以上聞かなかった。

聞かないところが、ずるい。

境内を出る前に、チーコはもう一度、狛犬の前へ戻った。

「やっぱり喧嘩じゃないね」

「どうして」

「喧嘩してたら、こんなに長く向き合ってられないでしょ」

蒼井は少し考えた。

「そうかもしれない」

「見つめ合ってる?」

「チーコがそう思うなら」

「最初に言ったのは蒼井でしょ」

「そうだったか」

「覚えてるくせに」

蒼井は先に鳥居へ向かった。

チーコはその背中を見て、小さく笑った。

今日撮った写真の中で、一番気に入った一枚。

向き合う狛犬。

その向こうに立つ蒼井。

タイトルはもう決めていた。

『向き合う人』

ただし、その題名だけは。

本人には、まだ教えない。