勝守を返せない男
九月の麻布は、夏と秋の間にいる。
日差しはまだ強い。
けれど、坂道を抜ける風には、明らかに夏とは違う匂いが混じっていた。
「チーコ、止まるな」
「止まってない」
「止まってる」
「撮影してるの」
麻布十番から麻布氷川神社へ向かう途中。
チーコは一本松坂の途中で、三度目の撮影を始めていた。
「坂道って、人物を入れるといいのよ」
「今日は人物を撮りに来たんじゃない」
「でも、ここを人が歩くから街になるの」
「それは分かるが」
「じゃあ待って」
「最初から待ってる」
蒼井は三脚を持ったまま、少し上の場所で立っていた。
チーコがファインダーを覗く。
坂を上る人。
下りる人。
住宅。
古い石垣。
その向こうに見える新しい建物。
麻布らしい一枚。
シャッターを切る。
「よし」
「今度こそ行くぞ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「足取りは軽いよ」
「撮影機材は俺が持ってるからな」
「ありがとう」
蒼井が一瞬、黙った。
チーコが振り返る。
「何?」
「いや。珍しく素直だった」
「私だって感謝くらいするわよ」
「知ってる」
それだけ言って、蒼井は先へ歩いた。
麻布氷川神社へ着く。
参拝を終えた二人は、境内の撮影に入った。
朱色の社殿。
御神木。
向き合う狛犬。
戦災を免れた神楽殿。
そして港七福神の毘沙門天。
「今日のテーマは?」
チーコが聞いた。
「勇気」
「勝運じゃなくて?」
「毘沙門天には勇気という御神徳もある」
「勇気か」
チーコは向き合う狛犬を見た。
「誰かと向き合うのも、勇気いるよね」
「相手による」
「蒼井は?」
「何が」
「苦手な人と話すとき」
「仕事なら話す」
「仕事じゃなかったら?」
「距離を置く」
「現実的」
「無理に仲良くする必要はない」
「じゃあ、大切な人と喧嘩したら?」
蒼井がチーコを見る。
「今日は質問が多いな」
「取材」
「俺への?」
「一般論よ」
「怪しい」