そのときだった。
授与所の少し手前で、一人の男性が立っているのに気づいた。
六十代半ばくらい。
白髪交じり。
落ち着いた服装。
手には古い御守。
男性は何度も授与所へ近づこうとして、そのたびに戻っていた。
チーコは気になった。
「蒼井」
「話しかけるな」
「まだ言ってない」
「顔に書いてある」
「でも」
「参拝者にはそれぞれ事情がある」
「分かってる」
チーコは一度引いた。
ところが男性が歩き出した瞬間、手にしていた御守を落とした。
チーコが拾う。
「落としました」
男性が振り返った。
「ああ……ありがとうございます」
手渡そうとして、チーコは一瞬だけ目に入った文字に気づいた。
勝守。
かなり古い。
「長く持っていらっしゃるんですね」
男性は少し驚いた。
「分かりますか」
「今のものと形が少し違うので」
「二十八年です」
「二十八年?」
男性は苦笑した。
「本当は今日、返そうと思って来たんです」
名前は、宮原孝志。
会社を経営しているという。
「二十八年前、まだ会社員だった頃に受けました」
「何か勝負があったんですか」
チーコが尋ねる。
宮原は少し遠くを見るような目をした。
「独立したかったんです」
当時、宮原には交際している女性がいた。
名前は真理子。
二人は同じ会社で働いていた。
宮原は独立して自分の会社を作ることが夢だった。
しかし安定した会社を辞めることに踏み切れない。
そんな宮原を、真理子が麻布氷川神社へ連れてきた。
「彼女が、この勝守をくれました」
『成功したら、二人でここへ返しに来よう』
そう約束した。
翌年。
宮原は会社を辞めた。
小さな事務所から始めた事業は、数年後に軌道へ乗った。
さらに十年後。
従業員は百人を超えた。
社会的には成功と言ってよかった。
「でも、真理子さんとは?」
チーコが聞いた。
宮原は首を横へ振った。
「別れました」
独立直後。
仕事に夢中になった宮原は、真理子との約束を何度も後回しにした。
夕食。
旅行。
誕生日。
結婚の話。
「成功してから全部返すつもりでした」
「返す?」
「我慢させた分を」
宮原は笑った。
「馬鹿ですよね。時間は貯金できないのに」
チーコは黙った。
真理子から別れを切り出された。
宮原は引き止めた。
だが彼女は、
『あなたは夢に勝った。でも私は、その勝負の相手じゃない』
と言ったという。
その後、真理子は別の男性と結婚した。
宮原も数年後に結婚。
家庭を持った。
現在は妻と穏やかに暮らしている。
「幸せなんですね」
チーコが聞いた。
「はい。妻には感謝しています」
「じゃあ、どうして御守を返せないんですか」
宮原は古い勝守を見た。
「この御守を返したら、あの頃の自分まで終わるような気がして」
蒼井が口を開く。
「真理子さんに未練があるんですか」
「違います」
宮原はすぐ答えた。
「たぶん、自分にです」
「自分?」
「もっと違う勝ち方ができたんじゃないかって」
向き合う狛犬の間を、風が抜けた。
「会社は成功した。でも、一番大切な時期に、誰かと向き合う勇気がなかった」
宮原は御守を握った。
「だから、これは勝った証じゃない。負けた証のように思えるんです」
チーコは、すぐには答えなかった。
いつものように励ましたくなる。
でも、簡単な言葉では届かない気がした。
蒼井が言った。
「その御守は、自分自身にも勝つ御守だそうです」
宮原が顔を上げる。
「ええ」
「だったら、二十八年前の勝負と、今の勝負は別なんじゃないですか」
「今の勝負?」
「過去を失敗だったと認めること」
宮原は黙った。
「成功した自分だけを残して、失敗した自分を切り離すこともできる。でも、それではずっと返せない」
チーコが続ける。
「向き合うって、勝つことじゃないのかもしれません」
「どういうことです?」
「この狛犬」
チーコが指した。
二体の狛犬が向き合っている。
「ずっと向き合ってるでしょう」
「そうですね」
「どっちが勝ってるように見えます?」
宮原は少し笑った。
「どちらも」
「でしょ」
「チーコ、理屈になってない」
蒼井が言う。
「いいの。今は」
宮原が笑った。
「いや。分かる気がします」
しばらくして。
宮原は授与所へ向かった。
古い勝守を返納する。
そして新しい勝守を一体受けた。
チーコが驚く。
「また?」
「今度は、過去の自分に勝つためです」
「いいですね」
「妻に笑われそうですが」
「奥様には話すんですか」
「帰ったら話します」
宮原は少し考えた。
「二十八年前のことを、初めてちゃんと話してみようと思います」
「勇気いりますね」
「だから御守が必要なんでしょう」
宮原は笑って帰っていった。
その後ろ姿を、チーコは撮らなかった。
蒼井が聞く。
「撮らないのか」
「本人が前へ行く場面だから」
「理由になってるような、なってないような」
「私にはなってるの」
二人は向き合う狛犬の前へ戻った。