第二章:夏(四月下旬・藤のシャワーと現在を見つめる平橋)
四月下旬の亀戸天神社は、まるで紫色の雲が境内に舞い降りたかのような、圧倒的な色彩に支配されていた。「藤まつり」の開幕である。心字池の周りに張り巡らされた藤棚からは、大人の背丈ほどもある見事な花房が、風に揺れながら幾重にも垂れ下がっている。境内には、甘くどこか気品のある香りが波のように押し寄せていた。
「チーコ、人の流れを止めるなよ。平橋の上から、藤棚のレイヤーと奥の社殿、さらにスカイツリーが入る『三層の構図』を狙うぞ」
蒼井はジンバルを掲げながら、周囲の混雑からチーコを庇うように一歩前に出た。三十歳手前の彼は、仕事の厳しさを知るクリエイターとして、現場での一瞬のチャンスを逃さない。
「はい……! でも先輩、すごいです。本当に紫色のトンネルの中にいるみたい」
チーコがカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ瞬間、彼女のほわんとした空気は完全に消え去った。衣服が擦れる音さえ置き去りにするような、圧倒的な集中力。風に揺れる藤の花びらの微細なグラデーション、池に映り込む紫の水鏡、そして初夏を迎える参拝客たちの弾んだ笑顔。彼女の指先は流れるようにダイヤルを回し、完璧な「現在」の美しさを切り取っていく。
「……ふぅ! 先輩、最高のカットが撮れました!」
撮影を終え、いつもの明るい笑顔に戻ったチーコが、液晶画面を蒼井に見せてくる。
「ああ、いい写真だ。……この平橋はな、三世一念の思想で『現在』を示す場所なんだ。俺たちが今、こうして最高の藤の季節に一緒にいられることの価値を、お前の写真が教えてくれてる気がする」
蒼井がふっと表情を緩め、無意識にチーコのキャメル色の髪に触れた。花びらを取り除くための、優しい仕草。至近距離で目が合い、チーコの頬は、ほんのりと藤色に染まっていく。
その藤棚の影では、ヤヨイと佐久間が並んでノートを広げていた。
「ヤヨイさん。僕はあなたの『現在』を、そしてこれからの言葉を、一番近くで支え続けたいと思っています。仕事のパートナーとしてだけじゃなく、もっと……」
寡黙な佐久間が口にした、不器用で、けれど一切の濁りのない真実の言葉。ヤヨイは驚きに丸眼鏡の奥の瞳を潤ませ、それから、長い黒髪を耳にかけながら優しく微笑んだ。
「……現在を示す平橋の前で、そんな真っ直ぐなこと言われたら、私の心の校正機能が働かなくなっちゃわ。でも、嬉しかった。これからも私の隣にいてね、佐久間君」
お互いを生涯のパートナーとして意識し始めた二人の温かい熱が、藤の香る下町の境内に、静かに、けれど確かに満ちていった。
