最終章・冬【短編ストーリー】
一月二十四日。総武線のガタゴトという揺れの音さえも凍りつくような、冷徹な北風が亀戸の町を吹き抜けていた。蔵前橋通り沿いに立つ大鳥居の向こう側、亀戸天神社の境内は、一年で最も熱く、そしてピンと張り詰めた静寂に包まれている。
「……くしゅん! す、すごい行列ですね、先輩。でも、手彫りのうそ鳥を大切そうに胸に抱える参拝客の方々のぬくもりが、レンズ越しにもじんわり伝わってくるみたいです。シャッターを切る指が震えちゃいます」
チーコはキャメル色のマフラーに顔を埋め、真っ赤になった鼻をすする。二十代後半の彼女の手元を見ると、お気に入りのフルサイズミラーレスカメラが握られていたが、手袋は外され、カメラバッグのポケットに突っ込まれたままだった。
カメラの細かなボタン操作やダイヤルを回す感覚を、指先の皮膚で正確に捉えるため、彼女は冬の屋外ロケでも絶対に手袋をしない。蒼井の誘いでこの仕事を始めてから、彼女が頑なに守り続けてきたプロとしてのポリシーだった。しかし、その指先はすでに感覚を失っているのではないかと思えるほど、痛々しく赤紫に変色している。
「チーコ、頑固なのもいいが、指が動かなくなったら元も子もないだろ。ちょっとカメラを置け」
前を歩いていた蒼井が、撮影を一時中断してチーコの前に立ち塞がった。三十歳手前の彼は、仕事の厳しさを知るクリエイターとして常に冷静だ。けれど、チーコが自分を犠牲にしてまで良い絵を撮ろうとする時だけは、その優しい瞳の奥に強い焦燥感が走る。
蒼井はシネマカメラを脇に抱え、自分のコートのポケットから、十分に温めておいた使い捨てカイロを取り出した。そして、躊躇うことなく、チーコの凍てついた両手を自分の大きな手で包み込み、その間にカイロを挟み込んだ。
「ひゃっ……! と、先輩……!?」
チーコが大きく目を見開いて硬直する。蒼井の手のひらから伝わる圧倒的な熱と、コートの影に閉じ込められた二人の距離。あまりの近さに、彼女の視線が蒼井の胸元あたりを泳いだ。
「意地を張るな。お前の写真は、ブレてたら意味がないんだ。……ほら、少しは感覚が戻ってきたか?」
蒼井はチーコの指先を優しく揉みほぐすようにマッサージする。その手つきは驚くほど丁寧で、大切にガラス細工を扱うようだった。チーコは俯いたまま、小さく「はい……あったかいです……」と呟いた。その声は、寒さのせいだけではなく、明らかな熱を帯びて震えている。
「先輩、私……春に湯島から始まった時は、まだ仕事の付き合いって感じでしたよね。でも、夏も秋も冬も、一緒にいろんな景色を見てきて……私、先輩が隣にいてくれないと、もういい写真が撮れないかもしれません」
チーコが俯いたまま、きゅっと蒼井の手を握り返した。ビジネスパートナーという都合の良い言葉に隠していた本音が、冬の寒さの中でついに溢れ出す。その言葉に、蒼井は今度は逃げなかった。彼女の真っ赤な手をもう一度そっと握りしめる。
「俺も同じだよ、チーコ。お前のファインダーが見つめる未来を、俺はこれからもずっと、特等席で記録し続けるって決めてるからな」
下町の空から、ひらひらと白い初雪が舞い降りてきた。けれど、重ね合わされた二人の手のひらは、春の訪れよりもずっと早く、確かな熱を放ち続けていた。
「去年の悪いことを嘘(鷽)にして、今年は良いことに取り(鳥)替える」
そんな天神様の鷽替え神事の境内で、もう一つのコンビもまた、境界線を吉へと取り替えていた。
「ヤヨイさん。僕はこれまで、あなたの『頼れる後輩』のフリをしていました。でも、もう限界です。僕はヤヨイさんを、生涯のパートナーとして愛しています」
寡黙な佐久間が口にした、一切の濁りのない真実の言葉。ヤヨイは丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、それから、溢れそうになる涙を堪えるようにして優しく微笑んだ。
「……本当に、不器用で真っ直ぐなんだから。よろしくね、私の大切な人」
ヤヨイは佐久間の腕に、そっと自分の腕を絡めた。いつもはお姉さんらしくリードするヤヨイが初めて見せた、甘えるような仕草。張り詰めた冬の境内で、二人の運命は、生涯を共にする確かな約束へと、美しく取り替えられていた。
夕方の五時。初雪が止んだ亀戸天神社の境内には、深く美しい夕暮れの紫色のグラデーションが広がっていた。男橋、平橋、女橋。三つの太鼓橋がライトアップされ、心字池の水面に鮮やかな光の帯を投げかけている。
「近藤君! 『一年の穢れを嘘に変え、僕たちは新しい未来へ鳥替える。亀戸天神社の冬は、下町のぬくもりそのものだった』……よし、これで亀戸天神編の全データ、コンプリートだよ!」
「最高だ、まゆみさん! 先輩たちのあの最高のエンディング、僕たちのノートにも一生モノの記憶として刻まれたな。……さあ、余韻に浸るのもここまでだ。佐久間先輩から、もう次の取材先のルートマップが飛んできたぞ」
「えっ、もう!? 次はどこに行くの?」
近藤がスマホの画面を見せると、そこには歴史の重みを感じさせる厳かな漆黒の門と、境内を取り囲む広大な緑の写真が映し出されていた。
「次は……浅草の『浅草寺』、あるいは周辺の名刹を巡るんだって。佐久間先輩がもう、次のコミュニティバスの遅延情報と、近くの美味しい甘味処のデータをまとめてくれてる」
「わあ、楽しみ……! 私たちも負けてられないね。早く先輩たちを追いかけよう!」
二人の若いADは、亀戸天神社の大鳥居をくぐり、歩き始めた。すぐ隣にある名店「船橋屋」の本店からは、お土産を求める参拝客の温かい笑顔と、くず餅の白い湯気が優しく立ち上っている。
振り返れば、ライトアップされた朱色の太鼓橋が、まるで「次の場所でも、良い物語を」と彼らの新しい一歩を優しく見送ってくれているようだった。
三つの架け橋を渡りきった四つの視線は、それぞれの胸に消えない真実のぬくもりを抱いたまま、次なる歴史の聖地へと、うきうきとした足取りで向かっていくのだった。
