雨上がりの麻布十番商店街には、傘を閉じた人たちが少しずつ戻ってきていた。
店先からパンの焼ける匂いが流れてくる。
チーコは小走りで蒼井の隣へ並んだ。
「かりんとうドーナツ」
「やはり買うのか」
「今日は取材が長かったから、二袋」
「一袋で十分だ」
「一袋だと半分ずつになるでしょ」
「二袋でも一袋ずつだ」
「そうじゃなくて」
「何が違う」
「一袋を二人で分けるのと、一袋ずつ食べるのは、意味が違うの」
蒼井は少し考えた。
「経費の話か」
「情緒の話よ」
「分からない」
「映像クリエイターなのに?」
「映像に必要な情緒と、ドーナツの配分は別だ」
店へ入ると、チーコは迷わず二袋取った。
蒼井はそのうち一袋を戻した。
「一袋でいい」
「だから足りないって」
「昼食も食べるだろう」
「これは別腹」
「別腹は医学的には存在しない」
「そういう現実的なことを言うから、蒼井は駄目なの」
「何が駄目なんだ」
「将来、奥さんに嫌われる」
蒼井の手が止まった。
チーコも、自分が何を言ったかに気づいた。
「あ、いや、その……一般論よ」
「一般論か」
「そう。世間一般の奥さんは、そういうことを気にするの」
「チーコは気にするのか」
「どうして私の話になるの」
「今、チーコが言った」
「私は世間一般の代表として言っただけ」
「そうか」
蒼井は一袋だけ持ってレジへ向かった。
チーコはその背中に向かって、小さく舌を出した。
会計を済ませ、店の外へ出る。
雨上がりの空はまだ明るく、雲の向こうに薄い青が見えていた。
蒼井は袋を開け、かりんとうドーナツを一つ取り出した。
「はい」
チーコへ差し出す。
「一つだけ?」
「まず一つ」
「残りは?」
「歩きながら決める」
「何を決めるの」
「半分ずつにするか、一つずつにするか」
チーコはドーナツを受け取った。
「情緒を理解した?」
「まだ分からない。ただ、試す価値はある」
「素直じゃないなあ」
「チーコに言われたくない」
二人は並んで歩き出した。
後ろには、アジサイに囲まれた十番稲荷神社。
その石段の下では、大小二体のかえるが、今日も変わらず同じ方向を見ている。
家へ帰る人。
遠くから帰ってくる人。
帰りたくても帰れない人。
そして、まだ自分の帰る場所に気づいていない人。
かえるたちは、そのすべてを知っているようだった。
チーコはドーナツを一口かじった。
「ねえ、蒼井」
「何だ」
「北海道、ちゃんと会えるといいね」
「ああ」
「帰ってこられるといいね」
「ああ」
蒼井は短く答えたあと、少しだけ歩調を緩めた。
チーコの歩く速さに合わせるように。
チーコは何も言わず、その隣を歩いた。
帰る場所というものは、建物や町だけではないのかもしれない。
誰かと同じ速さで歩ける道もまた、人が戻ってくる場所になる。
そんなことを考えたが、口にはしなかった。
今言えば、蒼井に「また思いつきか」と笑われそうだったからだ。
代わりにチーコは、袋の中をのぞいた。
「蒼井、もう一つ食べていい?」
「一袋を半分ずつにするんじゃなかったのか」
「私が多めで半分」
「それは半分と言わない」
「細かい男は嫌われるわよ」
「世間一般の奥さんに?」
蒼井が言った。
チーコは足を止めた。
蒼井は少し先で振り返り、珍しく楽しそうに笑っていた。
「覚えてたの?」
「記憶力はいい」
「そういうところだけは、本当に」
「何だ」
チーコは答えず、蒼井の隣へ追いついた。
かりんとうドーナツの袋を二人の間に持ち、歩きながらもう一つ取り出す。
今度は半分に割った。
大きいほうを自分で取り、小さいほうを蒼井へ渡す。
「ずいぶん差があるな」
「気のせいよ」
「写真に撮って確認するか」
「食べ物で証拠を残さないの」
「写真家が言うことか」
雨上がりの麻布十番に、二人の声が重なった。
その日、チーコが最後に撮った写真は、アジサイでも、狛犬でも、かえるでもなかった。
蒼井の手の中にある、小さく割られたかりんとうドーナツ。
背景には、雨に濡れた麻布の町。
タイトルは、まだ決めていない。
けれどいつか、その写真を見返したとき、きっと思い出す。
帰るという言葉について考えたこと。
三十五年ぶりにつながった家族のこと。
そして、隣を歩く人の速さが、いつの間にか自分と同じになっていたことを。