麻布十番稲荷神社・参拝短編ストーリー

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紫陽花の階段と、帰らない願い

六月の麻布十番は、雨の匂いがよく似合う。

朝から降ったり止んだりを繰り返していた雨は、午後になって細い霧のようになり、舗道をうっすらと濡らしていた。

都営大江戸線の麻布十番駅、七番出口。

階段を上って地上へ出たチーコは、透明なビニール傘を開くより先に、目の前にある十番稲荷神社を見上げた。

「わあ……」

石段の左右に、色とりどりのアジサイが並んでいる。

青、紫、白、淡い桃色。

鉢植えの花々は、雨を受けていっそう色を深くし、狭い石段を初夏の小道へと変えていた。

「きれい」

チーコは傘を蒼井へ押しつけると、すぐにカメラを取り出した。

「待て。レンズが濡れる」

「大丈夫。ちょっとだけ」

「チーコの『ちょっとだけ』は信用できない」

「失礼ね。今日はちゃんと防滴のレンズよ」

「そういう問題じゃない」

蒼井は傘を差し出したまま、階段の下に立った。

チーコは一段目へ足を置き、すぐにしゃがみ込む。

下から見上げれば、アジサイの列の向こうに鳥居、その奥に拝殿が見える。

都会の建物に囲まれた小さな神社なのに、ファインダーの中では、花の道が別の世界へ続いているようだった。

シャッター音が数回響く。

「蒼井、少し右」

「俺も写るのか」

「傘だけ借りる」

「人を撮影助手ではなく、傘立てとして使うな」

「優秀な傘立てよ」

「褒められている気がしない」

蒼井はそう言いながらも、チーコの指示どおりに傘を傾けた。

その動きがあまりに自然で、チーコは一瞬だけシャッターを切るのを忘れた。

大学時代から、こうだった。

チーコが夢中になって前へ出ると、蒼井は少し後ろから支える。

危ないときには止める。

止めても聞かないと分かると、次は転ばないように手を出す。

昔から変わらない。

変わらないのに、最近は少しだけ違って見える。

「どうした」

「何でもない」

「構図が決まらないのか」

「決まった」

チーコはカメラを構え直した。

シャッターを切る。

雨粒をまとったアジサイの向こうに、蒼井の手と傘だけが写った。

顔は入っていない。

それでも、誰の手なのか、チーコにはすぐ分かる写真だった。

二人は石段を上った。

すぐ正面に拝殿があり、右手に小さな手水舎、左手に社務所がある。

境内は決して広くない。

けれど、整えられた鉢植えのアジサイと、雨に濡れた石畳が、街の中に静かな余白をつくっていた。

チーコは手水舎の水面を撮り、細身の狛犬へカメラを向けた。

「この狛犬、戦争のとき地面に埋められていたのよね」

「ああ。だから空襲を免れた」

「土の中で、ずっと待っていたのかな」

「何を」

「またここへ戻る日を」

蒼井は答えず、狛犬を見上げた。

石の表面には、雨の筋が細く流れている。

「待っていたかどうかは分からない。ただ、埋めた人は戻すつもりだったはずだ」

「そうよね」

「戻る場所があると思わなければ、守ろうとはしない」

チーコはレンズ越しに狛犬を見つめた。

土に埋められ、空襲を逃れ、戦後の町に戻ってきた狛犬。

それは少し不思議で、少し切なく、そして強い話だった。

「写真のタイトル、決めた」

「早いな」

「『帰ってきた狛犬』」

「そのままだ」

「分かりやすいのが一番なの」

参拝を終え、チーコは境内をもう一度見回した。

石段の途中では、数人の参拝者がアジサイを撮影している。