社務所の前には、折り畳み傘を持った年配の女性が一人立っていた。
薄い灰色のカーディガンに、紺色のスカート。
手には、小さな紙包みを持っている。
女性は授与所の前で何かを尋ねているようだった。
しかし、すぐに首を横へ振り、社務所から離れた。
そのまま石段へ向かうかと思ったが、女性は境内の端に立ち、紙包みを見つめて動かなくなった。
チーコはカメラを下ろした。
「何か困っているのかな」
「すぐに声をかけるな」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「どこに?」
「全面に」
チーコは蒼井をにらんだ。
「でも、あの人、ずっと同じものを見てる」
「参拝者にはそれぞれ事情がある」
「そうだけど」
女性は紙包みを両手で包み込むように持っていた。
風が吹き、包みの端が少し開く。
中から、赤みを帯びた古い紙札のようなものが見えた。
チーコは目を細めた。
「御守かな」
「古そうだな」
「蒼井も見てるじゃない」
「観察しているだけだ」
「私も観察してるの」
「チーコの場合、そのあと必ず話しかける」
そのとき、女性の手から紙包みが滑り落ちた。
雨で濡れた石畳へ落ちる寸前、チーコが駆け寄って受け止めた。
「危なかった」
女性は驚いた顔をした。
「あら……ごめんなさい」
「大丈夫です。濡れていません」
チーコは紙包みを差し出した。
女性は受け取ろうとしたが、その手が少し震えていた。
「ありがとうございます。大切なものなんです」
「お守りですか」
蒼井が後ろから小さく息をついた。
やはり聞いた、という顔だった。
女性は少しためらったあと、包みを開いた。
中にあったのは、古い御神札だった。
中央に大きく、「上」の字が見える。
「上の字御守……」
チーコがつぶやいた。
女性は目を丸くした。
「ご存じなの?」
「こちらの神社に伝わるお守りですよね。がま池の水を使って作られる、火事除けのお札」
「よくご存じね」
「今日、取材で来ているんです」
チーコは自分と蒼井を簡単に紹介した。
女性は少し安心したように笑った。
「私は片桐と申します。昔、この近くに住んでいました」
「昔?」
「もう四十年以上前です」
片桐と名乗った女性は、御神札へ視線を落とした。
紙は茶色く変色し、角が擦れている。
それでも中央の「上」の字は、はっきりと残っていた。
「母が持っていたものなんです。母が亡くなったあと、家を片づけていたら出てきました」
「返納に?」
蒼井が尋ねた。
片桐は小さくうなずいた。
「そのつもりでした。でも、いざ手放そうと思うと……」
言葉が途切れた。
雨が社殿の屋根を細かく叩いている。
チーコは急かさず、片桐の次の言葉を待った。
「母は、このお札のおかげで家が焼けずに済んだと言っていました」
「火事があったんですか」
「ええ。私がまだ子どもの頃、近所で小さな火事がありました。風が強い日で、皆、こちらまで燃え移ると思っていたそうです。でも、火は途中で止まった。母はずっと、このお札が家を守ってくれたのだと信じていました」
片桐は、少し照れたように笑った。
「子どもの私は、そんなことあるはずがないと思っていたんです。御守一枚で火事が止まるわけがないって」
「でも、今は違うんですね」
チーコが聞くと、片桐は返事をしなかった。
その代わり、階段の下にいる大小二体のかえるへ目を向けた。
「母は、よくあのかえるを見に来ていました」
「がま池伝説のかえるですね」
「そう。無事に帰る。失くしたものが返る。病気から元気になって帰る。母は、何でも『かえる』につなげていました」
片桐の顔に、懐かしさと寂しさが同時に浮かんだ。
「私には、弟がいるんです」
蒼井の表情が少し変わった。
「今は、どちらに?」
「分かりません」
片桐は静かに答えた。
「三十五年前に家を出たきりです」
チーコは言葉を失った。
片桐の弟は若い頃、家族と激しく衝突し、そのまま家を出た。
最初の数年は、年賀状が届いた。
その後、転居先が分からなくなり、連絡が途絶えた。
母親は毎年、十番稲荷神社へ参拝し、弟が無事に帰るよう願っていたという。
「母は最後まで、あの子は帰ってくると言っていました。でも、帰ってきませんでした」
「お母様が亡くなったことは」
「知らせる方法がありませんでした」
片桐は御神札を見つめた。
「このお札を返せば、母の願いまで終わってしまうような気がして」
チーコは何も言えなかった。
不用意に「きっと帰ってきます」と言うことはできない。
三十五年という時間は、希望だけで簡単に越えられる長さではない。
蒼井が静かに尋ねた。
「お母様は、弟さんが帰ってきたら、何をしたいと話していましたか」
片桐は少し考えた。
「怒りたい、と」
「怒る?」
チーコが驚くと、片桐は笑った。
「一度だけ、そう言ったんです。帰ってきたら、まず一発たたいて、それからご飯を食べさせるって」
「お母様らしいですね」
「ええ。そのあとは、何も言わずにお味噌汁を出すつもりだったみたいです」
片桐の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
だが、彼女はそれをぬぐわなかった。
「私は、母ほど強く信じてはいませんでした。でも、このお札を見つけてから、気になってしまって」
「弟さんを探したことは?」
蒼井が聞いた。
「昔、親戚や友人を頼りました。でも、見つかりませんでした。警察へ相談するような事情でもありませんでしたし、本人の意思で家を出たのですから」
「最近は?」
「何もしていません。もう、弟も六十を過ぎています。生きているかどうかも……」
「生きているかもしれません」
チーコが言った。
蒼井がわずかに顔を向ける。
チーコ自身も、口にしてから少し後悔した。
根拠はない。
けれど片桐は怒らなかった。
「そうね。生きているかもしれない」
「帰ってこなくても、どこかで暮らしているかもしれません」
「ええ」
「お母様の願いは、家に戻ることだけではなかったんじゃないでしょうか」
片桐はチーコを見た。
「無事に帰るって、元の場所へ戻ることだけじゃないと思うんです。迷ったり、遠回りしたりしても、自分が安心できる場所へたどり着くことも、帰るって言うのかもしれない」
蒼井は黙って聞いていた。
片桐はしばらく考えたあと、小さく笑った。
「あなた、写真家なのよね」
「はい」
「言葉のお仕事もできそうね」
「それは蒼井の担当です」
「勝手に決めるな」
片桐が初めて声を立てて笑った。
「仲がいいのね」
「仕事仲間です」
チーコと蒼井の声が重なった。
片桐は二人を見比べた。
「そういうことにしておきましょう」
「本当に仕事仲間です」
チーコは念を押した。
「はいはい」
片桐は母親のような返事をした。
雨が少し弱くなった。
社務所の近くで、神職がアジサイの鉢を動かしている。
片桐は古い上の字御守をもう一度包み直した。
「今日は返納しないことにします」
「持って帰るんですか」
「ええ。もう少しだけ、母の願いを預かってみます」
そのとき、片桐のバッグの中で携帯電話が鳴った。
片桐は断ってから電話に出た。
「もしもし……ええ、私です」
最初は普通の表情だった。
しかし、相手の言葉を聞くうちに、顔がこわばっていく。
「どなたから、ですって?」
チーコと蒼井は顔を見合わせた。
「その名前は……」
片桐の手が震えた。
電話は短かった。
切ったあと、片桐はしばらく動かなかった。
「どうしました」
チーコがそっと尋ねる。
片桐は、すぐには答えられなかった。
「弟の名前を知っている方からでした」
「弟さんの?」
「ええ。母の古い住所を頼りに、私の連絡先を探したそうです」
「弟さん本人ではないんですか」
「弟の知り合いだそうです」
片桐は大きく息を吸った。
「弟は、北海道にいるそうです」
「生きているんですね」
チーコの声が明るくなる。
だが、片桐の表情は複雑だった。
「入院しているそうです。弟が、家族へ連絡を取りたいと言い出したと」
「今からでも間に合います」
チーコが言う。
「でも……」
片桐は御神札を握りしめた。
「何を話せばいいんでしょう。三十五年も、何もなかったのに」
蒼井が静かに言った。
「決めるのは、会ってからでもいいと思います」
片桐は顔を上げた。
「話す言葉を全部用意してから会う必要はありません」
「でも、怒ってしまうかもしれない」
「お母様も、最初は怒るつもりだったのでしょう」
片桐は少し目を見開いた。
「それから、ご飯を食べさせる」
蒼井が続ける。
片桐の口元が震えた。
「そうでしたね」
「怒る言葉も、会わなければ届けられません」
片桐は目を閉じた。
しばらくして、静かにうなずいた。
「行ってみます」
雨はほとんど止んでいた。
雲の切れ間から淡い光が差し、濡れたアジサイの花びらが輝いている。
片桐は拝殿へ戻り、もう一度深く頭を下げた。