第三章 返せない勝守

エミリーを見送ったあと。
授与所近くに一人の男性がいた。
チーコは以前と同じような光景を見た。
古い御守を持っている。
近づいては戻る。
また近づく。
戻る。
「今度は話しかけない」
チーコが先に言った。
「偉い」
「子ども扱いしないで」
しかし男性のほうから話しかけてきた。
「写真を撮っておられるんですか」
「はい」
男性は御守を見せた。
「これも、撮ってもらえますか」
古い勝守。
かなり傷んでいる。
「返す前に、残しておきたくて」
男性は村瀬康彦と名乗った。
七十二歳。
大学教授を定年退職したばかりだった。
「五十年前に受けました」
「五十年?」
チーコが驚く。
「大学受験のときです」
「合格祈願?」
「いえ」
村瀬は笑った。
「告白するためです」
チーコの目が輝いた。
蒼井がすぐ横を見る。
「物語の顔になってるぞ」
「何よ、その顔」
村瀬は楽しそうに笑った。
高校三年生。
村瀬には好きな女性がいた。
幼なじみの秋山玲子。
大学受験が終わったら気持ちを伝えるつもりだった。
しかし、いざ受験が終わると怖くなった。
そこで麻布氷川神社を参拝。
勝守を受けた。
「自分に勝とうと思って」
「告白できたんですか?」
「しました」
「結果は?」
「付き合いました」
チーコが笑顔になる。
「よかった」
「でも、結婚はしませんでした」
二人は別々の大学へ進学。
交際は四年ほど続いた。
卒業後。
村瀬は海外留学。
玲子は日本で就職。
遠距離。
手紙。
国際電話。
会えない時間。
そして、別れ。
「嫌いになったわけではなかった」
村瀬は言った。
「将来の方向が違ってしまったんです」
その後。
玲子は結婚。
村瀬も結婚。
互いに家庭を持った。
「では、どうして五十年も?」
チーコが御守を指した。
「返すタイミングを失った」
「成功したら、とか?」
「いいえ」
村瀬は向き合う狛犬を見た。
「彼女に、もう一度会ってから返そうと思った」
「会えなかったんですか」
「会おうと思えば会えました」
「じゃあ」
「勇気がなかった」
村瀬は笑う。
七十二歳の男性が言う「勇気がなかった」という言葉は、不思議な重さを持っていた。
「何を話せばいいか分からなかった」
蒼井が聞く。
「謝りたいんですか」
「違う」
「戻りたい?」
「それも違う」
「では」
村瀬は少し考えた。
「ありがとう、と言いたかった」
玲子は、村瀬が研究者を目指すことを最初に応援してくれた人だった。
留学も勧めた。
別れ際にも、
『行ったほうがいい』
と言った。
その後、村瀬は研究者として成功した。
「彼女が背中を押してくれなかったら、今の私はいなかった」
「なら、伝えたらいいじゃないですか」
チーコが言う。
「五十年経って?」
「五十年経ったから」
蒼井がチーコを見る。
チーコは続けた。
「ありがとうって、遅すぎることあるのかな」
村瀬は黙った。
そのとき蒼井が聞いた。
「玲子さんは、ご存命ですか」
「はい」
「連絡先は?」
「知っています」
「だったら、会うかどうかを決めるのは玲子さんです」
村瀬が顔を上げる。
「あなたが一人で、会うべきではないと決めることもない」
「蒼井」
チーコが小声で言う。
「厳しい?」
「少し」
「でも正しい」
村瀬は笑った。
「若い人に言われてしまった」
「若くないです」
チーコが言う。
蒼井がすぐ、
「そこは否定しなくていい」
と言った。