第二章 なくなった古い印影
十番稲荷神社の境内は、朝の参拝者で静かに賑わっていた。
広い神社ではない。
石段を上がると、すぐ正面に拝殿がある。
右手に手水舎、左手に社務所。
境内の左右には、都会の建物が近くまで迫っている。
それでも、鳥居をくぐった瞬間、街の空気は一段だけ遠くなったように感じられた。
チーコは拝殿の屋根を撮影し、佐久間は狛犬へ近づいた。
ヤヨイは参拝者の流れと社務所前の混雑を記録する。
近藤君とまゆみさんは、港七福神めぐりの専用台紙を確認していた。
蒼井は全体を見渡してから、社務所へ向かった。
しばらくして、神社の担当者が一行を小さな控室へ案内した。
机の上には、古い写真を複写した紙が置かれていた。
そこに写っているのは、宝船の絵だった。
「これは、旧竹長稲荷神社にあったと伝わる宝船の絵を、戦前に撮影した写真の複写です」
担当者が説明した。
「安藤広重の筆と伝えられていましたが、原本は戦災で焼失しました」
チーコが紙の近くへ顔を寄せる。
七福神を乗せた宝船。
波の線。
帆に描かれた文字。
写真自体が不鮮明で、細部までは分からない。
「相談というのは、この絵についてですか」
蒼井が尋ねた。
担当者は一枚の台紙を取り出した。
「港七福神めぐりで使用している、宝船の印影です。現在のものは、旧竹長稲荷神社の御朱印をもとに復元されています」
台紙には、朱色の宝船が押されている。
「ところが、昨夜、この印の原型となった古い印影資料がなくなりました」
室内の空気が変わった。
「盗難ですか」
佐久間が初めて口を開いた。
「分かりません。資料は神社の外へ持ち出す予定があり、昨日、確認のため取り出しました。その後、保管箱へ戻したはずなのですが、今朝になって見当たらなくなりました」
「警察には?」
近藤君が聞く。
「貴重な資料ではありますが、金銭的価値を判断しにくいものです。それに、内部の確認不足という可能性もあります。まずは関係者で探しています」
「私たちに探してほしいということですか」
ヤヨイの問いに、担当者は首を横に振った。
「正式に捜査をお願いするわけではありません。ただ、皆さんは今日、境内や周辺を撮影されるとうかがいました。もし何か不自然なものを見つけたら、知らせていただきたいのです」
チーコは古写真と現在の印影を見比べた。
「なくなった資料は、どんなものですか」
「薄い和紙に、宝船の印が押されたものです。昭和初期のものと推定されています。右下に、小さく墨で『永坂』と書かれています」
「永坂」
佐久間が反応した。
旧竹長稲荷神社があった場所に関係する地名だ。
蒼井は写真を見たまま言った。
「最後に確認したのは、誰ですか」
「昨夜、私ともう一人の職員が確認しました。そのあと保管箱へ戻しました」
「箱に鍵は?」
「ありません。控室自体には施錠しました」
「窓は」
「閉まっていました」
チーコが小声で言った。
「密室ね」
「小説じゃない」
蒼井がすぐ返す。
「でも、物が消えたのよ」
「まずは置き場所の間違いを疑うべきだ」
「蒼井は夢がない」
「印影が消えた話に夢を求めるな」
担当者が困ったように笑った。
だが、まゆみさんだけは古写真をじっと見ていた。
「この宝船、今の印影と少し違いませんか」
全員が写真を見た。
「どこが?」
近藤君が尋ねる。
「七福神の人数です」
チーコが指で数えた。
「一、二、三……七人いるわよ」
「そうではなくて、船の後ろ」
まゆみさんが示した場所には、薄い影があった。
人のようにも、荷物のようにも見える。
「八人目?」
チーコが言った。
担当者は首を傾げた。
「そのような話は聞いたことがありません」
蒼井は紙を持ち上げ、光へ透かした。
「写真の傷かもしれない」
「でも、面白い」
チーコの目が輝いた。
蒼井はため息をついた。
「面白がる前に、取材を始めるぞ」