第六章 名乗れなかった娘
北村香織は、社務所の手伝いを終えたあと、麻布十番商店街の喫茶店にいた。
蒼井が事情を説明すると、彼女は逃げなかった。
「写真を置いたのは、私です」
千鶴子が息を呑む。
北村は深く頭を下げた。
「父の名前は、三浦清一です」
「父……」
「あなたのお祖父様の弟です」
千鶴子は椅子へ座ったまま動かなかった。
北村は、父の遺品から写真と手紙を見つけたと話した。
父は戦後、北海道で写真館を始めた。
家族へ戻ろうとしたこともあったらしい。
しかし、東京の家が戦災で失われ、家族がどこへ移ったのか分からなかった。
後年、兄が生きていることを知った。
それでも連絡しなかった。
「どうして?」
千鶴子の声は震えていた。
北村は膝の上で手を握った。
「父は、自分が家族を捨てたと思われていると考えていました」
「違います」
「はい。でも父は、帰らなかった時間が長くなるほど、帰れなくなったと言っていました」
父は晩年、十番稲荷神社の話をよくした。
子どもの頃、兄と神社へ行ったこと。
狛犬の前で写真を撮ったこと。
家族で宝船の絵を見たこと。
そして、大きながまが火事から町を守ったという話。
「父は、かえる御守を持っていました」
北村は小さな布包みを出した。
古い御守だった。
「いつか帰るためだと言っていました。でも、帰れませんでした」
「亡くなったのは?」
「十年前です」
千鶴子は目を閉じた。
「もっと早く、探してくれれば」
「申し訳ありません」
「あなたを責めているのではありません」
千鶴子は写真を見た。
「祖父も、弟を探さなかった。清一さんも連絡しなかった。二人とも、同じくらい意地を張っていたのかもしれません」
北村の目から涙が落ちた。
「父の写真を、こちらへ返したかった。でも、名乗る勇気がなくて」
「どうして今日、私が来ると分かったんですか」
「神社で、お名前を聞きました。三浦という姓と、古い狛犬の写真の話で、もしかしたらと思ったんです」
北村は千鶴子を遠くから見ていた。
声をかけようとした。
だが結局、できなかった。
写真だけを残した。
「父は帰れなかった。でも写真だけでも、帰したかった」
千鶴子は長い間、何も言わなかった。
やがて、北村へ写真を差し出した。
北村の顔がこわばる。
「受け取れませんか」
「違います」
千鶴子は写真を二人の間に置いた。
「一緒に見ましょう」
北村が顔を上げる。
「この写真は、私だけのものではありません」
二人は一枚の写真を挟み、長く話し始めた。
兄弟の子ども同士。
会うことのなかった家族。
帰れなかった人の話。
チーコと蒼井は、少し離れた席へ移った。
「撮らないのか」
蒼井が小声で聞く。
「撮らない」
「そうだな」
チーコは二人の姿を見た。
「写真って、不思議ね」
「何が」
「人を残すこともあるし、人を帰すこともある」
蒼井は黙っていた。
「今の、使っていい?」
チーコが聞く。
「誰に許可を取ってる」
「映像クリエイターに」
「チーコが言った言葉だ」
「じゃあ、著作権は私ね」
「好きにしろ」