第九章 帰る場所
七福神めぐりを終えたのは、夕方だった。
二人は麻布十番へ戻ってきた。
「疲れた」
チーコが言う。
「途中で二回休んだからだ」
「休んだから最後まで歩けたの」
「かりんとうドーナツを買う体力は残っているのか」
「もちろん」
「聞くまでもなかった」
パン屋で一袋買い、二人は近くのベンチに座った。
チーコが袋を開ける。
「蒼井、多めに食べていいよ」
「珍しいな」
「今日は荷物を持ってくれたから」
「いつも持っている」
「じゃあ、いつも感謝してる」
蒼井は一瞬、チーコを見た。
「何?」
「いや」
「変な顔」
「チーコが素直だったから驚いただけだ」
「私だって素直よ」
「そうか」
「疑ってる」
チーコはドーナツを一つ渡した。
冬の麻布十番は、夕暮れとともに急に寒くなる。
通りを歩く人々は、マフラーへ顔を埋めていた。
「前に聞いたこと、覚えてる?」
チーコが言った。
「何を」
「蒼井の帰る場所」
蒼井はドーナツを持ったまま黙った。
「今は決まった?」
「しつこいな」
「半年に一回しか聞いてない」
「十分しつこい」
「答えたくないならいいけど」
チーコは前を向いた。
蒼井が言った。
「決まったというより、気づいた」
チーコは振り返らなかった。
「どこ?」
「場所ではない」
「人?」
蒼井は答えない。
「誰?」
「質問が多い」
「大事なところで黙るからでしょ」
蒼井は紙袋から小さなドーナツを取った。
「仕事が終わったあと、同じものを食べて、くだらない話をして、次の取材の相談をする。その時間に戻れればいい」
チーコはようやく蒼井を見た。
「それって、誰と?」
「分かって聞いているだろう」
「分からない」
「嘘だ」
「ちゃんと言ってくれないと分からない」
蒼井は困ったように息を吐いた。
「チーコといる時間だ」
通りの音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
チーコはドーナツを見た。
「ふうん」
「それだけか」
「何て答えればいいの」
「聞いたのはチーコだ」
「急に答えるから」
「半年待った」
「私は急に聞いたわけじゃないのに」
蒼井は笑った。
チーコは顔が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、私も言う」
「何を」
「私の帰る場所」
蒼井が待つ。
チーコは一度、深呼吸した。
「まだ決めてない」
「何だそれは」
「でも、候補はある」
「どこだ」
「場所じゃない」
「人か」
今度はチーコが答えなかった。
「誰だ」
「質問が多い」
「俺の真似をするな」
「分かって聞いてるでしょ」
蒼井は少し笑った。
「分からない」
「嘘」
「ちゃんと言ってくれないと分からない」
チーコは蒼井をにらんだ。
「意地悪」
「チーコが先に始めた」
二人はしばらく見つめ合った。
やがてチーコが、紙袋から一つ取り出した。
半分に割る。
大きいほうを蒼井へ渡した。
「今日はそっちが大きい」
「意味があるのか」
「ある」
「何だ」
「言わない」
蒼井は受け取った。
「では、次の取材までに聞く」
「いつ?」
「近いうちに」
「それ、仕事の予定?」
「半分は」
「残り半分は?」
蒼井は答えなかった。
だが、立ち上がるとチーコのカメラバッグを持った。
「帰るぞ」
「どこへ?」
「今日は、それぞれの家だ」
「今日は、ね」
チーコも立ち上がった。
二人は並んで麻布十番駅へ向かった。
七番出口の近くを通ると、十番稲荷神社の鳥居が見えた。
その右側では、二体のかえるが変わらず座っている。
帰る人。
待つ人。
帰れなかった人。
そして、同じ場所を帰る先にしようとしている二人。
チーコは立ち止まり、カメラを取り出した。
「また撮るのか」
「最後に一枚」
「暗いぞ」
「大丈夫」
ファインダーの中に、かえると鳥居と、少し先を歩く蒼井の後ろ姿が入る。
「蒼井」
呼ぶと、彼が振り返った。
その瞬間、チーコはシャッターを切った。
「今の写真、何に使う」
「使わない」
「では、なぜ撮った」
チーコはカメラを胸元へ抱えた。
「忘れたくないと思った瞬間を、自分の外に置いておくため」
蒼井が目を細める。
「それは俺が言った言葉だ」
「著作権料は?」
「高いぞ」
「かりんとうドーナツ半分でどう?」
「大きいほうなら考える」
二人は笑いながら駅へ向かった。
写真の中には、振り返る蒼井がいる。
その手には、チーコのカメラバッグ。
背景には十番稲荷神社。
そして小さく、大小二体のかえるが写っている。
写真の題名は、もう決まっていた。
『帰る場所を写す人』
ただし、その題名を蒼井に教えるのは、もう少し先でいい。
今はまだ、二人で同じ速さで歩けること。
それだけで十分だった。