第二章 古い神符
参拝を終え、二人は熊野牛王神符について話を聞いていた。
八咫烏の烏文字。
厄除け。
熊野信仰。
そして古くは誓約にも用いられたという話。
「誓約?」
チーコの目が輝く。
蒼井はすぐ気づいた。
「小説の顔になってるぞ」
「どんな顔よ」
「何か事件を起こしたい顔」
「私が起こすんじゃないもの」
そのとき、授与所近くにいた老人が振り向いた。
七十代後半ほど。
紺色の帽子。
杖を持っている。
「牛王神符に興味があるのかい」
「はい。取材なんです」
チーコが答える。
老人はバッグから古い紙包みを取り出した。
「こんなのも、牛王神符かな」
広げられた紙は、かなり傷んでいた。
八咫烏のような烏文字。
現在のものとは少し意匠が異なる。
裏返すと、墨で一行書かれていた。
《必ず帰る 昭和十九年六月》
チーコと蒼井の表情が変わった。
「これは、どなたのものですか」
蒼井が聞く。
「父の遺品だ」
老人は岡崎正夫と名乗った。
父親、岡崎隆一は戦時中に出征した。
この神符は、出征前に母親へ渡したものらしい。
「父は帰ってきたんですか」
チーコが尋ねた。
老人は首を横へ振った。
「戦死したと聞いている」
チーコは言葉を失った。
神符の裏には、
必ず帰る。
だが、その約束は果たされなかった。
「ただね」
岡崎は続けた。
「妙なことがある」
「何でしょう」
「父が亡くなった場所が、分からないんだ」
正式には南方で戦死。
だが詳しい部隊記録は曖昧だった。
家族へ届いた戦死公報にも具体的な状況はなかった。
そして十年前。
岡崎のもとへ、一通の手紙が届いた。
差出人は九州の女性。
《あなたのお父様をご存じだった者から、これを預かっています》
同封されていたのは、一枚の写真。
戦後間もない頃と思われる港町。
そこに、岡崎隆一によく似た男性が写っていた。
「生きて帰っていた?」
チーコが言う。
「分からん」
岡崎は写真を二人に見せた。
白黒写真。
港。
荷物を運ぶ男たち。
中央付近に、一人の細身の男性。
「確かに似ています」
蒼井が慎重に言った。
「でも本人かどうかは、これだけでは判断できません」
「分かってる」
岡崎は笑った。
「だから今日、この札を返しに来たんだ」
「返すんですか」
「父が帰らなかったなら、約束は終わった。もし帰っていたなら……」
老人は神符を見る。
「なぜ家族のところへ戻らなかったのか。それを考えるのも、もう疲れた」
チーコは何も言えなかった。