第九章 鯛の約束
数日後。
蒼井が編集した映像の仮タイトルは、
『必ず帰る――飯倉熊野神社、八咫烏が導いた記憶』
だった。
冒頭。
桜田通りを走る車。
東京タワー。
鳥居。
八咫烏。
太田道灌と鯛の伝承。
牛王神符。
岡崎家の写真。
そして最後は、夕暮れの道を歩く二人の後ろ姿。
チーコが画面を見ながら言った。
「これ、いつ撮ったの」
「固定カメラ」
「知らなかった」
「映像クリエイターだからな」
画面の中で、チーコが少し前を歩き、途中で立ち止まる。
振り返る。
蒼井が追いつく。
二人で並んで歩き出す。
「私、また迷ってるみたい」
「実際に道を間違えた」
「そこは編集で切ってよ」
「象徴的だから残した」
「何の象徴よ」
「八咫烏が必要な人」
「ひどい」
エンドロール直前。
蒼井が最後のナレーションを入れていた。
『道を示すものがあっても、人は自分で歩かなければならない。』
『それでも、迷ったときに同じ方向を見てくれる人がいれば、帰る道は少しだけ近くなる。』
チーコは黙って聞いた。
「これ、蒼井が書いた?」
「ああ」
「いいじゃない」
「珍しく素直だな」
「事実だから」
「前にも聞いたな、それ」
チーコは画面を見ながら言った。
「ねえ」
「何だ」
「岡崎さんのお父さん、鯛を供えられなかったね」
「そうだな」
「太田道灌みたいに、帰ってきたお礼」
蒼井は少し考えた。
「代わりに、岡崎さんが何か供えるかもしれない」
「いいね」
「今度聞いてみるか」
「鯛だったら写真撮りたい」
「食べるなよ」
「神様のだから食べないわよ」
「チーコなら念のため言っておく必要がある」
「私を何だと思ってるの」
チーコは笑いながら蒼井の肩を軽く叩いた。
編集室の画面には、飯倉熊野神社の八咫烏。
その先に伸びる東京の道。
どこへ行くのか。
いつ帰るのか。
誰と歩くのか。
そんなことは、まだ誰にも分からない。
けれどチーコには、一つだけ分かっていることがあった。
迷ったとき。
立ち止まったとき。
振り返れば、たぶん蒼井がいる。
大学時代から、ずっとそうだった。
「蒼井」
「何だ」
「次の取材、どこ?」
「まだ決めてない」
「珍しい」
「候補はある」
「どこ?」
「東京タワーの反対側」
「ざっくりしすぎ」
「歩けば分かる」
チーコはカメラバッグを持ち上げた。
「じゃあ、案内して」
「ああ」
「迷わないでよ」
「それはチーコの台詞じゃない」
二人の笑い声が、編集室に響いた。
八咫烏は道を示す。
でも、その道を一緒に歩く人までは決めてくれない。
そこだけは、自分で選ぶしかない。
チーコはまだ、その答えを口にしない。
蒼井も、たぶん同じだった。
だから今は、それでいい。
同じ方向へ歩いている。
それだけで、十分だった。